2019



鹿沼市  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。 

千渡城sk 大塚城sk  口粟野岩鼻城sk 八方城sk 粟野城sk




千渡城sk位置(マピオンへのリンク)
図面は少々古すぎて、難があると思います

【解説】

机の中を整理していたら、こんな図面が出てきた!
鹿沼市は訪れたことがないと思っていたら、25年も前に来てたじゃないか!

行ったことすら覚えてない。何の記憶も無い。
こんな昔に既にこの地を訪れてたなんて。。。

忘れすぎて、解説も何もできないが
画面右下のコーナー部は空堀が回り込んでいたようである。
鹿沼市発行の『鹿沼の城と館』では、現状道路となっているが、
複郭の可能性もあるのではないか。

城主として宇都宮氏家臣・宇賀神(地)の名前が見える。







大塚城sk位置(マピオンへのリンク)

【調査にあたって】

城跡を訪ねるときは、おおよその調査時間を頭に描いてから行くものだ。
与えられた時間の中で、調査可能な城を選定する。

粟野町の調査を決めた時、先学の調査図からは、大塚城は舌状台地にいくつかの堀切を配した、いかにも「調査の容易そうな城」のイメージが沸いてきた。
この日は午前中に大塚城を見て、午後からは糟尾城のダブルヘッダーにしようと決めたのである。

大塚城に着き、登城口を地元の方にお聞きして、車を置かせてもらった。
いつもの様に言われた。
「行っても、何も無いですよ。」

管理人は『こりゃ、やっぱり大したこと無いな・・・』と感じ、飲み水だけを手に取り山に入った。
しかし、それがとんでもないことになる。
私のその予測は大きく覆されたのである。


で、でかい。。。

                 

◆堀切
 
                   ◆大塚城全体図 (北⇒)


大塚城は大きく4本の大きな堀切で尾根を分断している。
とくに南側の堀切は、完全遮断の堀切である。

左写真の堀切は最南のものであるが、深くて降りるのもやっとであった。

この2本で完全に尾根続きを分断しているため、曲輪間の連絡はほとんど無いものと考えてよいだろう。

           

南から2番目(右から2番目)の曲輪に目を転じよう。
写真の堀切は南から2番目のものである。   
やはり規模がでかい。

この曲輪から山麓に向かう道がある。
ブッシュでたどれなかったが、この曲輪への通路と考えられる。
 
そう考えると、最南(図の一番右)の曲輪にも崩れているが堀切沿いに道のような遺構がある。
連絡路の痕跡であろうか。

南の大きな堀切を持つ2つの曲輪は、曲輪間の連絡通路が無く、直接山麓からのアプローチとなっていた事が考えられる。

◆縦堀と通路

大塚城は、城下が南山麓であったようで、綺麗に山上までの通路が残っている。
特徴的なのは、敵に通路を利用された時、山腹に回りこまれてしまう。
これを規制する意味で、通路横に縦堀を配置している。             
◆縦堀現況
通路範囲を規制し、山腹への回り込みを防いでいる。
現状ではかなり浅く短いが、往時は長さも、深さもあったに違いない。
似たような構造を持つ城はたくさんあるのだが(例 甲斐 要害山城など)
栃木でこれだけハッキリ残っているのは珍しい。

意思のハッキリ現れている縦堀である。

          
◆ルート上の虎口

この縦堀に挟まれた通路には特徴的な虎口が残る。
図の赤丸で囲まれた部分だ。



左図の2箇所は、ルート上の典型的な枡形虎口のような構造を持つ空間である。

山下からあがってくる道を一度クランクさせる。
そして上部の比較的広い曲輪に上げさせ、再びルートを再開させる

左図の上部の虎口は特に前述の縦堀によって両側の通路を規制した状態からの虎口であり、効果的であり、攻撃的である。





◆主郭への通路

さて、主郭への通路はどのようになっていたのであろう。


       
◆主郭横堀切

考えられるケースは3つある
1つは木橋である。
主郭の両側の曲輪には、主郭に向かって大きな土壇状の土塁があり、
この上から主郭に橋をかけていた可能性がある。
土壇状土塁はスロープがあり、登りやすくなっている。

もう一つは、紫の線で示したように、わざと主郭に近い曲輪を通さずに、
さらに下の曲輪から主郭両袖に伸びている土塁を登らせる方法である。
この場合、上記の土壇状の土塁は、視角的に主郭を隠す目的だけのものとなる。

 ①、②両方の入り方があった。

さて皆さんはどのように考えるであろうか??

◆石垣

当城を歩くと分かるのだが、かなり石を使っていたようだ。
完全に石垣となっている部分は少ないのだが、至るところに石が顔を出している。
掘りかえして見ると、結構すごい総石垣作りの城であるかもしれない。
あいにく写真を撮り忘れて掲載できないが、
このページを見た方は留意して見学されると良いであろう。


              

思わぬ広がりをもった大塚城。
水だけを持って山に入った私は、縄張図を描き終わるまで下山できず、
4~5時間ほどこの山の中に缶詰にされた。
書き終わってからの手打ちそばが旨いの何の。
粟野は、そばの名産地でもある。

最後に城の入り口をとどめておこう。
県道から大塚城山麓東に最も近い細い道を入ると、下記の様な写真の場所があるはずだ。
写真、まん中の道を進み山に取り付けば、主郭への道に取り付くことができる。

なお、写真左手には怪しい土塁状の小山があるが、山麓居館遺構の残欠の可能性がある。
精査していないので何ともいえないが、付け加えておくことにした。

(大塚城・完)









 

八方城sk位置マピオンのリンク


■八方城縄張図 copyright.masaki.2009
【解説】


 


  八方城は小倉城の西方約400m/標高380mにある。
 ここには(この辺りは)、天正13年、
   宇都宮氏・佐竹氏が攻め込んだという記録があり、
       日光勢力・壬生氏関連の城と言われている 
 









        



主郭北には、
  曲輪とも言える大きな土壇がある。
風除けの土塁ともいえるが、判然としない。


 主郭中央には大きくえぐれた穴がある。
狩猟関係で作られたとも言われている。
構築目的はいまひとつ分からない。

城は、西方のみ堀切①②を配す。
 主郭西は堀切①②で防備する。
堀切②は北側で谷となり、下方に落ちていく。
一方、東側に明確な堀切は無い。
”?”は堀切ではなさそうだが、あったとしてもかなり浅い。。

これは、東側にある小倉城との関連を感じさせるものである。



                                         ■主郭内部写真


城へのルートは、東方向がテクニカルで、ハッキリしている。

図中の”坂虎口”から段を上がり、上部の小曲輪を経て、”虎口?”と書いてある部分から主郭へ進入したものと思われる。
   




 ■坂虎口写真










 




             (八方城 コンプリート)





口粟野岩鼻城sk 位置マピオンのリンク

 2012冬・攻城第一陣 初陣!新発見の城   2012/11/18


 2011年、
 鹿沼市の遺跡分布調査により発見されたこの城は、
 非常にコンパクトな縄張りである。


 場所は、粟野中学校の裏山と言えば誰でもわかる。
 粟野城の西方、標高262mの山である。


  
しかし、


 何しろ主郭にアプローチする
登山道が全く無い


   

                            ご覧のように、道も無い尾根を選びながらの登山となる。

                     息を切らし、頂上を目指す。
                
             人里近いとはいえ、何しろクマが怖い。  

        最近栃木では、人里近い所で、クマの目撃事件が頻繁に起こっているからだ。 

 
             さぁ、のぼれたぞ!
             本シーズン攻城第一戦だ。
           口粟野岩鼻城、調査開始!


            

【解説】
  

   口粟野岩鼻城は、基本単郭の城だ。



主郭は綺麗な切岸を持つ。
左が、その写真だ。

適度に伐採され、城内は非常に見やすい状況となっている。

     




  主郭周りには、細い帯状の通路を兼ねた曲輪と堀が一周する。
  写真は、そこからから主郭を見上げたものだ。
  比高8m~10mほどであろうか。 

     

    
 
            


 主郭の山頂からは、4方向に尾根が伸びるが、それぞれに防御施設を配している。

 便宜上、尾根のそれぞれをA,B,C,Dとしてみる。


              

 まず、Aの尾根である。

 道なき道をたどって、今回最初に取り付いたのが、このAの尾根であった。

 Aの尾根には、非常に浅い堀切が2本、連続している。
 
 A尾根の先は細い鞍部が続くが、加工の跡はない
 







         

                 
                        





 次にBの尾根に行ってみよう。
 AからBの尾根に行くには、堀切からの細長い通路状の曲輪を伝えば良い。


Bの尾根のB1は、
パッと見、通路となっている。
Bの尾根からの連絡路のように見える。
ひょっとすると堀切だったかも?という感じもする。
ただ、現状では曲輪幅が狭いので可能性は低いと判断している。












左の写真は堀切B2である。
少々緩めの尾根上を分断している。

B2の尾根先は、やはり細い鞍部が続き、
西方面に下っていくが、遺構は無い。
















 次にCの尾根に行ってみよう。
 同じく、細い通路のような曲輪で、B尾根からC尾根に移動できる。


主郭から、きつい尾根を少々下ったところに堀切C1がある。
当城の中で、一番落差のある感じがする堀切である。
  ◆堀切C1



堀切C1からは、緩く細い尾根が下る。
C1より約50mほど下ったところに、
左の写真・堀切C2がある。

けして大きくはないが、遮断の意識を持った堀切である。




 ◆方向を変えてC2をのぞきこむ。
 

 再び主郭方向に登って、今度はDの尾根を観察してみよう。



 主郭より一段下の曲輪から、Dの尾根方向をのぞんだ。

 図面のように、C尾根とD尾根を横堀が結んでいる。
 


   




             D尾根の堀切を堀内部から撮影する。
             見た目には土塁もしっかりしており、他の尾根とは異なる遮断意識を感じる。 
           

 
 Dの堀から、振り返ってAの尾根方向を見る。
 再び、通路状の曲輪がAに向かう。
 曲輪というには、少々厳しい感じの幅だ。
















 
 
 ふたたび、Aの尾根へ。
 これで、ぐるりと一周だ。

 








 


 1周したところで、全体を俯瞰してみよう。
 
 まず、主郭へのアプローチであるが、虎口1、2が妥当な線であろうか。
 B尾根に続くところ(b部)からも、主郭に上がれないこともないが、
 虎口1、2には、最上段より下に1~2段の小曲輪を配置している。
 このことから、虎口で間違いないと判断した。

 虎口1には崩れがあるが、岩横に坂道が見て取れる。
 虎口2は曲輪端に導入の跡が残る。



 



                    
次に、防御施設の配置を見てみよう。

現在の堀の残存状況で判断するのは危険と言われるかもしれないが、
明らかに防御施設が”手薄”に思えるのは、B尾根に対してである。

つまり、縄張りのセオリーで行くと、B尾根がこの城の大手道となる。


B尾根の下は現在、思川との間に出来た田園地帯となっている。
ここが城下だったということになろうか。












今までの考察をまとめると

この城の大手はBであり、B尾根をたどり主郭へ近づき
主郭b壁にぶち当たり2分され、虎口1又は2から主郭へ導入。


という模式が成り立ってきた。

虎口の考察のところで、b下も主郭へ入れそうであり、
虎口かどうか迷う所があった。

しかし敵方に不利なように、
導入路を2分するという考え方を持つと、
やはり虎口は1、2のみで良いと思われる。

また、横堀の存在や堀切の数から見て、
この城の警戒方向は北に偏っている。

当然、この城の築城者は誰であるか分かっていないが、
お隣の粟野城・皆川氏の影響を受けていたとすると、
仲良くなかった宇都宮氏のいる北側を警戒していた?とも考えられる。

         (口粟野岩鼻城コンプリート)

 口粟野岩鼻城sk 番外編 尾根続き 2012/11/18 編集11/27

 粟野の谷全体を俯瞰してみよう。

 粟野城を先頭とし、思川の谷戸には粟野城、口粟野岩鼻城、大塚城、粕尾城が綺麗に並んでいる。

 本ホームページの那珂川町のケースから言うと、『?』の山はなんか非常に怪しい事になる。

 航空写真を見ると、土取場なのか採掘場なのか、?の山の頂がなくなるのは時間の問題だ。


 ・・・ま、それはひとまず置いておこう。

 
 
「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第532号)」

 




 
者が今回気になったのは、

 口粟野城の西方の峯続きである。






「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第532号)」





 
 筆者縄張り図の考察から、

  ①”北を意識したような作りになっているのなら、岩鼻城より標高の高い北方の峯にも何か施設を作ったのでは?”
 

 と思ったからである。

 また、

  ②”粟野城と岩鼻城の間に、もう一つ城があってもいいのかな?


 ということで、、地図の赤い点線上にある神社の山にも期待してみた。


            ◆目的地の神社


 


 筆者が歩いたところは、すべて
赤の点線で示した。

 もちろん道などは無いのでご注意を。

・・と言っても誰も行かないと思うが。。。。。



 クマに襲われないようにと、熊鈴を鳴らしながら進む。
 時々、大声を出しての行軍。

 第三者に見られたら、さぞアホっぽく見られるだろな・・・・。

  


「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第532号)」







             ◆峯続きからの景色

         
そして、結論、

             
何もなし ち~ん
                      

 

                     

    
  無駄足も多くなってしまったが、汗びっしょりの初陣であった。





 それにしても、神社前の藪ときたら、
   

        種・・・・付き過ぎでしょ!














                
(口粟野岩鼻城番外編含めコンプリート)
 番外編の番外編 ”?”の山 2012/12/07 
 
   て、上記番外編で書かせてもらった、”?”の山。
  那珂川町の例で行くと、等間隔の城展開が予想された。


  ?の山が怪しい・・・・

 早速現地へ管理人は飛んだ!


  
 
「この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平24情複、 第532号)」
           

 ?の山は 砕石業者オーリスの採石場の南前面にある。

 地図で言うと、かなり砕石の規模が広がっているので、このままいけば山自体が無くなってしまいそうだ。


 写真道路正面のお宅のご婦人に、尋ねてみた。

  「すみません、お宅様の裏山はお城跡と言われた事無いですか?」
 
 「ずーっとここにいるけれども、聞いたことないねぇ」
  「ちなみに、裏の山はなんていう名前で呼ばれてますか?」
 
 「それも、聞いたことないねぇ」
 
 「実は、この山が城あとの可能性があるんですよ!」
  「そうなの?(驚)」


 このままでも仕方がないので、とりあえず山に入ることを許可いただき、山頂を目指すことにした。

 
 「昔は、道があったんだけど、荒れちゃってねぇ。猪とか、獣がたくさん出るから気をつけてね。」
 と、気遣ってくれたけど、ちょっと不安になりながら私は登り始めた。


山頂である。

朽ち果てた祠があった。



                 
山頂はダラットした平坦になっている。 



北に続く尾根があるはずが、砕石で根こそぎ無くなっていた。


 ということで、いつもの通り予想は大外れ!

 
          遺構は何もありません。

 山を降りて、帰りにご婦人にお礼と、ご挨拶。

 「どうでしたか?何かありましたか?」
 「城じゃありませんでした。お騒がせしました。」

 ほんと、お騒がせしました・・・・・。

                     
(番外編もコンプリート)




粟野城sk (城の位置)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

  何度も来ているのに、図面化してなかった城 
  
2016/12/2,3,10,11 その他数しれず

 粟野城城山公園は、ツツジの景勝地、長いローラ滑り台があることで有名だ。
 子供達が小さい頃は、管理人も良く連れてきたものだ。
 しかし、城跡の図面化は今までしていなかった。

 今回描いてみると、谷と尾根の遺構の位置関係が非常につかみづらい。
 縄張り図屋泣かせの城である。
 フレックス縄張り図法を使い、位置関係を合わせ、完成させた。
 


                    ◆現地縄張り図
              


 
















































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