2019



 

鹿沼市16 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



粟野城 天狗沢城

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整備され、見やすくなった城  2016/12/02公開
  
 
【プロローグ】

 粟野城。。。。。。
 何度も訪れているのに、図面にしていないことに気がついた。

 今を去ること約20年前、管理人は埼玉県から栃木にやってきた。
 
 当時は子供も小さく、慣れない土地で、遊具のある公園を探したものだ。
 その時、ガイドブックでローラー滑り台のある公園を知り、当地にやってきた。
 この滑り台がある山続きが、”粟野城”であることには、その直後に知った。
 
 このローラー滑り台は、距離も長く、なんといっても景色が素晴らしい。
 そのうち娘も栃木で誕生し、子供たちには、ここのローラー滑り台が大人気となった。
 何度足を運んだろう。
 
 また、この公園はツツジ群落でも有名であり、季節になるとお祭りが行われる。
 オレンジ色のツツジが咲く姿は、本当に美しい。
 
 そんなわけで、数え切れないほど来ているのに、実は城の調査はしていなかった。
 過去に、たった一度だけ子供を連れ、公園から山頂まで登ったことがある。
 その時は、なにしろ草ぼうぼうの荒れた山であった事を記憶している。
 
 
 それが今まで、調査を遠のかせた理由であった。


 

    _____________________________________________

 時が経ち、子供たちも大学生になった。
 もう、ローラー滑り台など見向きもしない。

 そんな中、粟野城が山頂まで整備されたと聞いた。
 「これはチャンス!」今度こそ、図面を描くぞ!という意気込みで、調査にやってきたわけである。



麓の神社から山頂を目指す。
大昔ここを通った時は、道はあるものの草だらけだった

今、雑草は取り払われ綺麗な木の階段ができている。

   





 

少しだけ残る紅葉を横目に見ながら、山頂を目指す。























     すると、谷のどんつきが見えてきた。
     あとで、調査すると、ここは曲輪跡である事がわかる。
               




      谷のどんつきを超えると、視界が
パッ!と開ける。
      今日は天気もよく、すごい気分が良い。
           





       振り返ると粟野の街がよく見える。絶景である。

        




         

山頂近くからは、口粟野岩鼻城も見える。























       
        

所々ベンチが備えられ、整備はかなり丁寧に行われたようだ。













   
    


山頂には、”口粟野防空監視哨(かんししょう)”がある。
調べると、これは戦時中の敵兵器の見張り台だ。










     


監視哨のある方角を見る



















     




監視哨のある曲輪を西側から望む。

















                    ______________________

   


    さて、粟野城の ”本丸” として、地元の解説版は監視哨のある山頂ではなく、中腹の山腹部の曲輪を主郭としている
               




      確かにこの位置であれば、風が凌げる。




      ”本丸”を上から望んだもの。







      しかし、険しい山である。










パット見で辺りを徘徊すれば、堀切等も綺麗に残っている。




さぁ、調査開始だ!!









            

     

 
【解説】 

              

 この城の歴史は明らかになっていないようである。
 佐野氏、皆川氏の争奪の城とも考えられている。
 しかし、『皆川正中録』という江戸期の戦記物の記述がベースだ。

          
 それに対し、城の遺構全貌は、いくつかの縄張り調査結果で明らかになっている。。
 ただ、最近時、城内の公園整備が行われており、過去の縄張り図と、現況はかなり違っていると思われる。
 公園化が進むことにより、確実に破壊が進んだと言って良い。
 そうは言っても調査進めと、過去図の解釈と、管理人の解釈が違う所も見えてきたので、それを踏まえながら解説を進めてみたい。



      __________________________________


 まず、手っ取り早く管理人の縄張り図を見ていただこう。
 ご覧のように粟野城は防空監視哨(ぼうくうかんししょう)のある山頂と、そこから伸びる三つの尾根と、その間の二つの谷を城域としている。
 はっきり申し上げて、戦国時代を代表するような技巧的な遺構は無い。



 Aは、
 最近公園化が進み、遊歩道も拡張整備されてしまったため、どこまでが昔の状態、城道なのかわからなくなっている。
 谷の先端部には井戸跡が残っている。
 その井戸前に直立した石積みの壁があり現在 ”石垣” と標柱が立っているが、誤りである。
 この石垣は明らかに近代の物だ。

 谷のドンつきには、通称(本丸)の広い空間がある。
 両袖が尾根に挟まれ、風を避け、居住するには十分な空間である。

 その(本丸)から井戸跡までは、細長い谷が続くが、明らかに重機が入った痕跡がある。
 かつてはいくつか段差もあったようであるが、今は無い。
 ここには人が住めなくもないだろうが、ゆるりとした傾斜地である。
 どちらかというと居住空間はA谷を出た先、の平坦地だと管理人は思っている。
 谷の中は、居住スペースというよりも、敵の侵入を防ぐ障壁があったエリアと考えたい。

(本丸)内部  谷の様子  居住空間H 
     
 A谷の入口付近
 

 F
 

 先に管理人は、この城の山麓居住区はH部に集中していたと考えている。
 それは、A谷の防御遺構は、谷の先端にまで至っているからだ。(尾根Dでも解説するが・・・)
 人が住むことによってできる人垣も、りっぱな城としての防御壁だ。

 それに対しF谷の遺構は、谷の奥まったところにしかない。
 これは、谷の入口付近が、居住空間で無かった事を示す。
 よってF谷遺構は、単純に谷の中への敵の侵入を嫌った障壁群と考えたい。
 

残念ながら、F谷内は下草が多く写真映えしないので撮ってない 



 (本丸)より北背後の
遺構群B
 ここは、監視目的の施設であろう。
 単純な段々の曲輪がある。
 頂部に近い曲輪には、周囲に低い土塁もある。
 しかし当地は、戦時中に防空監視哨(かんししょう)が作られたこともあり、中世からの物かどうか疑問である。
 遺構群B全体が、近代の改変の可能性もある。

 ※戦時中の山の上の見張り台。
   ここから敵機の来襲を確認し、参謀本部に伝える。
  早期伝令により、迎撃準備の時間を稼ぐための施設だという。

監視哨  山の頂上 内部  なにしろここからの眺めは抜群だ。
管理人も一休み
     



 さて、次に遺構群Bから派生する尾根 I C D Eに目を向けよう。


 尾根 I
 尾根Iは、山頂から西方向に伸びる。
 尾根IとB遺構群は一本の堀切で仕切られている。
 堀切から先には岩塊があり、そこから先は城外と考える。
 岩塊に堀切を描く縄張り図もあるが、これは誤りで、自然にできたものである。
 このような岩場に堀切を作っても、役に立つ訳がないし、堀切など作らずとも、この岩塊自体が完璧に外部を遮断する。
 ちなみに尾根Iの先には、遺構は何もない。
 

 岩塊の切れ目。
これを堀切とするのは誤りである
 峯続きをここまで行ってみたが、
遺構は無かった。
(アプリやまやま より)
 西の峯続きから、粟野城山頂B遺構群を望む
     



 尾根C
 尾根Cには、谷Aに向かって竪堀を落とす大きな堀切がある。
 土橋で外方向につなげている。
 この先も城内と言えば城内なのでははあろうが、あまり加工している様子がない。

     
 尾根Cの堀切。この城で一番深い  堀切に沿う土塁。しっかりしたものである。  堀切を越えた、図のCの文字付近。
尾根Cには、いくつかの曲輪があるが
往事からの物かわからない
 
  尾根Cの全景


 尾根D

(本丸)から尾根Dを下る。
 人工的な壁はあるものの、曲輪ははっきりしない。
 D尾根の先端には、堀で囲まれた出城のような
空間Gがある。
 何度も言うが、空間G下の城山公園駐車場近辺は、山麓遺構があったとされる場所である。

 そのことから考えても、GとHが、A谷の入口を監視していたと思われる。

 駐車場となっているH 
   


 尾根E
 ここには、三重堀切がある。
 三重・・・というと、三つの堀が連なっているような感じであるが、少しづつ距離を置いて
三つの堀切が配置されている
 既存の鹿沼市の縄張り図では、真ん中、南側の竪堀が描かれていないが、見落としである。
 全てきれいに三本竪堀が残っている。
 堀切部分は、かなり埋もれてしまっているようである。
 これら三つの堀切を伐採で使用する後世の改変と見る考え方もあるようであるが、往時からのものと見て間違いなかろう。

 尾根Eは、その先も続くが、水道施設??のような所まで行ってみたものの、遺構は何も見当たらない。
 水道施設??の真下には、F谷の防御の竪堀がある。
     
     
縄張図   三連続堀切、真ん中二番目南側斜面の竪堀。
しっかりあります!
 左写真を上から望みます。


 粟野城は破壊が進んでいるものの、ほぼほぼ、中世城郭の魅力を感じさせる城なのであった。


                                   
  (粟野城コンプリート)










天狗沢城sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 

新発見された城  2017/11/08,10公開
  
 
【プロローグ】

 本ホームページのお客様、『下野戦国争乱期』さんによると、
粟野に新しい城 ”天狗沢城(争乱期さんが命名)”が見つかったという。


 居ても立ってもいられなくなった私。
 早速、粟野に飛んだのだった。
  
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 
 さて、下野戦国争乱期さんの記述にしたがい、当城の所有者さんにお断りである。
 
 所有者Oさん宅は、城と粕尾川を隔てた対岸にある。
 山でタバコなど、火を使われることが怖い、とおっしゃられていた。
 当たり前のことだが、所有者の心配としては、ご尤もである。。
 じつは、Oさんにたどり着くまで他に2軒のお宅にお伺いをたてた。
 みなさん、全くこの城のことをご存知無かった。

 とにかく、無事に所有者の御了解を頂けたので、早速山に入る。
 車は、少し離れた橋の下か、城の直下では道路脇に駐車できる。

        
   
        

     
 当初は小規模な城と思っていた。
 2時間程度で終わるかなぁ、と予想していた。


 
ところがギッチョン!

      とんでもない土木量なのである!

            
     
 


 当城は、大越路峠の北方に派生する尾根の先端に作られている。
 
 
 


左写真は、城の北方から撮ったもの。

逆光でわかりづらいが、
矢印が主要部で、尾根の中腹に立地している

   






 

 山に取り付きしばらくすると、早速堀切が迎えてくれた。

 結構しっかりした切岸で、この先も期待が持てる。
 




















堀切を登り終えると、広めの曲輪があり、
その左手にいきなり見えたのが、これである。
  巨大竪堀!



     ◆最下段から見上げる
     




 『これで、無名城かぁ???』
 と、大きなショックを受けながら先に進む。
 

 

←竪堀の先を進むと、さらに上位の曲輪へ誘導するかのように、
  緩やかな導入路?が続き、誘導先には堀切が見える。↓

             





 
←堀切を超えると、本城の主郭である。
  意外に広い。




  ↓さらに進めば、
  巨大矢倉台!が現れた!

   








 主郭より北は、尾根を大きな二本の堀切で分断する。
 堀切でできた小さな郭が続くのだが、その先の細尾根にも遺構がある。
 はっきりとした切岸が二段あり、最北端には畝型の連続竪堀もある。

                


 これだけの情報、写真で十分、城の雰囲気は掴めて頂けたと思う。
 詳細は、縄張り図が完成したところで、解説したい。



                                       
  
 【概要】


                 


 無名城であるゆえん、城の歴史を語るものは何も無い。
 この城は、尾根を堀切で断ち切る城である。
 近隣の大塚城と似ているようにも見えるが、尾根を堀切で分断する所しか似ていない。
 これだけで同じ城主が築いた城と明言して良いのだろうか?
 この地形であれば、堀切で尾根を分断する事は、当たり前の行為だ。
 Ⅰ郭、Ⅱ郭、Ⅲ郭の南端の土塁も、尾根が下る方向の低い曲輪端に土塁を築くのも当たり前といえば当たり前。
 城を築く選地(立地条件。。例えば細い舌状尾根)が同じだから城主も同じ、という考え方も少し乱暴であろう。
 
 
 縄張りを見ている我々は、”城の作り”、そこが共有していないと 『同じ城主が作ったもの』 と言えないと思っている。
 栃木で言うと、例えば日光市の明神城と板橋城は、縄張りの作りが完全に一致している。
 城を40年見てきているが、関東ではこういったケースは稀である。
 なので、『城郭縄張り論者は、”縄張りを見ているだけで、何も定格化できていない』
 いつもここを突かれて、いじめられている部分だ。

 残念ながら、粟野の谷に点在する城々の作りも、どれもこれもユニークだ。
 一定の法則なんてない。
 粕尾、口粟野岩鼻、大塚、天狗沢、それぞれの小さな領主達が、それぞれの考えで城作りをしているとしか思えない。
 ただ、これらの城は、お互いが見える位置に立地し、相互補完し合っていることは容易に想像できる。
 どのような同盟関係かは分からないが、これらの城は、粟野の谷戸(川が形成する谷状の地形)を監視している。

 粟野の谷の城は、この城だけ、なぜか思川の右岸に築かれている。
 地形図を見ると、粟野の谷はちょうど天狗沢城から北方向に大きく湾曲している。
 田畑が作りやすいのは左岸であるが、左岸にばかり城を築いていると、谷戸の湾曲からお互いの城が見えなくなってしまうのだ。
 そこで仕方なく、天狗沢だけ、思川右岸に築かれたという様に読める。
 この城の主目的が、谷戸を監視するためと判断できる
 よって、天狗沢城は越路峠方面はあまり警戒していないと思われる。
 峠を気にするのであれば、もっと峠に近いところに作るべきである。

 さて、この城の堀切間の渡し方であるが、木橋だったり、堀底を歩かせたりしていた。
 それを決定付けるのは、郭端にある矢倉台状の土塁頂点のスペースだ。
 橋を渡りきった踊り場スペースがあるかないかで判断できる。
 また、主郭尾根両側には、東尾根、西尾根が伸びてきており、ここも城域に見える。
 しかし、管理人は違うと考える。
 たしかに、人が居られそうな平場もあるが、近代のものである。
 作業道、炭焼き小屋に通じる道などが物語っているし、菌類栽培などの畑の跡であろう。
 また、もしも、これらを城域に含むとなると、兵力が大きく分散されてしまう事になる。
 大名系の大規模城郭ならまだしも、天狗沢城くらいの小規模な城では、兵力も限られていたであろう。
 主郭尾根を守ることで精一杯だったのではなかろうか。
 それゆえ堀も深く、執拗に尾根上に竪堀を設けているのではなかろうか。
 

 あくまでも、城域は主郭のある尾根のみとみた。


 

 【解説】

     さて遺構を順を追って解説していこう。


 【主要尾根に沿って】

 ◆堀切A周辺
主郭北には堀切Aがある。
堀切北の曲輪と主郭は木橋で結ばれていた。
北の小郭には、下の曲輪から登ってくる道跡が確認できる。
ここから、主郭側の低い土塁の切れ目に、木橋が掛かっていたのだろう。

    
    







 ◆Ⅰ郭(主郭)
 主郭は50m×15mほどの綺麗な平場である。
 最南端には大きな矢倉台がある。
 矢倉台の東西両袖には通路がある。
     



 ◆堀切B
 主郭南の大きな堀切である。
 西の谷側の竪堀は長く、天狗沢直前まで伸びている。
 南の曲輪(Ⅱ郭)から主郭に渡るには、堀切Bの堀底に一度降りていたと考える。
 というのは、主郭矢倉台最頂部は非常に狭く、ここにⅡ郭から橋を架けても、踊り場スペースがない。

 よってⅡ郭から主郭への通路は、B堀底から主郭矢倉台両脇へ道を繋げていたのだろう。

 


  ◆堀切C
 これも堀切Bと同じくらいの規模の堀切である。
 Ⅱ郭南端には、同様に大きな土塁が構えられている。
 土塁頂部は四角く区画されており、さらに小土塁が設けられている。
 小土塁は東側が切れており、ここに第Ⅲ郭から木橋が架かっていた。
 橋を掛ける土塁上のスペースも十分だ。
 この橋台座土塁からⅡ郭西面に沿って細い土塁が伸びる。
 橋からⅡ郭に降りる通路、または防御壁の土台と思われる。







 

◆堀切D
 堀切Cより規模は少し落ちるが、しっかりした堀切である。
 Ⅲ郭の南端には、同様に高い土塁が設けられているが、矢倉台である。
 やはり頂部に橋を架けるスペースがない。
 その北側には、低いマウンドがある。
 また、よく見ると、Ⅱ郭と同じように矢倉台からⅢ郭西辺へ、低い土塁が伸びている。
 この低い土塁、マウンド、矢倉台で囲われた空間が、枡形門形状を生み出している。
 現在はこの桝形門に入る通路がはっきりしない。
 しかし、Ⅲ郭に入る通路は、城外方向からD堀切を渡り、
 どこからかこの枡形門に繋がっていたのでは、と考える。
    






◆切岸E付近
 堀切Dから、切岸Eまでは細尾根となる。
 この細尾根には、尾根両側に竪堀が設けられていたようで、幾つか斜面を削った跡がある。
 切岸Eは完全なる人工的な切岸で、両袖には微妙な竪堀痕がある。
 かなり埋まっているが、堀切であった可能性も否めない。

 












 ◆切岸F付近
 ここも人工的な高い切岸である。
 
 
 







       
 よく観察すると、切岸西斜面に、3条の畝状竪堀が残存する。
 











 【主郭北の遺構について


 
 

Ⅳ郭
 主郭直下には、主郭の西、北方向を中心に、広く帯状に囲むⅣ郭がある。
 この曲輪の最北端には、北に向かう巨大竪堀が存在する。
 典型的な薬研堀で、現在も堀底は剃刀のように鋭角となっている。
 堀は尾根センターを、粕尾川に向かってほぼ直線的に下降し、
 平地直前で突然大きな土塁に変化する。
 この土塁は、現在生活道路で寸断、消失しているが、粕尾川まで伸びていたと思われる。
 またⅣ郭の西側には、西の谷に繋がる道があるが、谷の中の炭焼き小屋に通じており、
 往時のものとは思えない。
 曲輪東の端末からは、東の谷方面に下りる道が多少たどれるが、はっきりしない。
    

 






  
Ⅴ郭

 第Ⅳ郭から西に伸びる尾根に築かれている。
 Ⅳ郭とは堀切Gで仕切られている。
 堀底からはⅣ郭に伸びる道が確認できる。
 この堀切の先には遺構はない。
  ホント、よくぞここまで残っていてくれた!と言いたい。
 しかし、所有者の方含め、地元の方の認知が全くない事が非常に残念であった。


     


                                        (天狗沢コンプリート)




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