2019
鹿沼市15
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
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粕尾城 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
第7回 まとめ・栃木の五稜郭 2016/07/17 公開 |
【解説】 粕尾城の彩色図が完成した。 何度も言って申し訳ないが、ホントに五稜郭に見える。 築城者が稜堡式城郭を意識したとは考えられないが、偶然の産物にしては出来すぎている感がある。 この城へのアプロ-チであるが、大手口前までは道路が整備されている。 車は、この路肩に置かせていただこう。 入口には、立派な城址碑と休憩所まであるが、親切なのはここまで。 主郭まで、まったく道は整備されていない。 道なき道を進み、台地の突端に出る。 ここが一般的に主郭と言われる場所である。 主郭?には、祠が祀られており、その先は断崖絶壁となっている。 絶壁とは言っても、眼下には道路が見える。 結構近いし丸見えだ。 なんでこんなところを主郭?としたのであろうか??? 主郭?から南東方を見下ろす。 縄張り図でもお分かりだと思うが、この城の城域は広い。 よって、ここは当城の最高所であり、物見的な役割を担う場所だったと考えられる。 城の中枢は、この最高所だけというよりは、周囲の曲輪を含めた ”赤い網掛け領域” と管理人は考える。 よって主郭群と言う言葉の方が、当てはまるかもしれない。 さて、地形図を見て思ったのだが、管理人は 往時は主郭群の崖下は、”川”だったのではなかろうか?と思うのである。 現在、城周辺の耕作地は畑が多い事に対し、この崖下だけ ”田んぼ” になっている。 ホタルの里の川と思川に挟まれたこの一帯は、よく見ると中洲のようだ。 このことから、管理人は、この崖下が往時は氾濫原であり、水にさらされていたと思うのである。 よって、責められにくい場所として崖上に主郭群が形成されていた。 また、こうなると昔は現在の県道15号は繋がっていないことになる。 よって、左図赤線のように粕尾城を東周し北に抜ける林道が、かつての街道であったと考えられる。 そうすると、自ずとこの城の存在意義も見えてくる。 粕尾城は、城下に街道を取り入れる街道監視の城だったのである。 よって、主郭群も街道筋から最も奥まった所に設けられており、合点がいく。 大手口も街道べりに解放されていたことになる。 また、当城の空堀の位置を見てもらいたい。 この城の大きな特徴として、大きな空堀(長塁と言って良い)が存在する。 調査しているときは、なんでこの大きな空堀が、城の西面には展開しないのだろう? と考えていた。 埋もれてしまった可能性も考えたが、他のエリアの残存状況から比較すると、ここだけ埋まった可能性は低いだろう。 だが、上記のような街道筋を想定すれば、ここも自ずと合点がいく。 城の西面は思川が水堀の代わりをしていたのだ。 よって 空堀は、街道筋と、陸続きの方面にのみ配置されていたのだ。 縄張りの解説を続けよう。 さて主郭群の南北に走る尾根は、堀切で区切られている。 主郭群の最南端には、縦堀が存在する。 これがうまい具合に、先述の考察の氾濫原の境界線のところに立地する。 川と縦堀で、主郭群への敵の侵入を完全阻止しようとしたものだ。 さて、上記の縦堀を南下すると、この城の最大の特徴とも言える”長塁”が姿を現す。 南西の矢倉台?を頂点に、空堀が西から東に弓なりに下る。 写真は、とば口の矢倉台?を東から望む。 長塁は見事な姿を現代に残している。 かなり埋もれていることを想定すると、往時は相当深かったに違いない。 堀は写真のように弓なりにカーブを描いている。 横矢の効果を狙ったものだろうか? それとも、地形にあわせて出来た偶然の産物か? 矢倉台?から東に下る堀を望む。 管理人は、この美しい空堀を見ているだけで、嬉しくてたまらない気持ちになる。 さて、目を再び主郭群に向けよう。 微妙な傾斜は持つものの、ここは本当に真っ平ら。 内部はいくつかの切岸で仕切られている。 そして、栃木の五稜郭の北の頂点。 ここから幅の広い空堀が、南東に向かい伸びていく。 街道筋からの敵の侵入を警戒してか、ここには堀の両端に土塁が高く盛られているのが特徴だ。 調査完了。 あーぁ、ちかれた。 主郭群でしばしのお昼寝。 4月って、城見学に最高だよね、気持ちいいよねぇ~。 蛇足であるが、森薬師堂の八重桜。 見事である。 1820年に再建されたこの薬師堂は、小山義政が創建したという説もあるという。 まさに、城の守護神と言うべきか。 (粕尾城コンプリート) |
第6回 粕尾城、浄書完成 2016/06/15 公開 |
粕尾城の浄書が完成した。 これから、色つけ作業に入るが、やっぱり五稜郭にしか見えない! つづく |
第5回(番外) 小山義政終焉の地 2016/05/08 AM10:00~11:00 公開 |
今日は、粕尾城の関連史跡を見に行った。 「鎌倉大草紙」によれば、 城のバイブル「日本城郭大系」によれば、 現在の粕尾城のまわりに ”寺窪” という字名があり、寺窪の城=現在の粕尾城と考えているらしい。 また、出典は明らかではないが、小山義政は寺窪の城から「櫃沢城」に移り、そこが本当の終焉の地ともされている。 ”櫃沢” と呼称されている場所は、現在の粕尾城と思川を挟んだ対岸を想定している。 ◆思川対岸から粕尾城を望む。 _________________________________________ その ”櫃沢” と思われる地に、『小山義政の自刃の五輪塔』 が残るという。 いろいろ道に迷ったのだが、畑仕事の男性にお話を伺うことができた。 運良く五輪塔は、その方の私有地内にあり、ご丁寧に車の駐車場所と道を提供していただいた。 お話によれば テレビ塔オレンジ矢印の下が、自刀の地だそうだ。 畑の中の道を歩かせていただき、アプローチ。 途中、小さなお堂を通りすぎる。 お堂を過ぎると、テレビ塔に達する。 この階段を登ると・・・・・ ・・・・小山義政の自刃の地にたどり着いた。 小さな崩れた五輪塔は、何を意味するものなのだろう。。。。 _________________________________________ 【もうひとつの櫃沢】 さて、この自刃の地周辺を ”櫃沢城” ”寺窪城” と仮定する説もあるようだが、 その説は、まわりの地形を見ても、あまりにも無理があろう。管理人は、違うと思う。 ◆中腹周辺も歩いたが、城の可能性はかなり低い それより管理人が気になるのは ”櫃沢” なる地名である。 ”櫃沢” という地名は非常に珍しいと思う。(※ネット上の地名辞典でも出てこない) ところが、この地名が現存している。 それが、加園の西の ”櫃沢” である。 地図にも出ている。(下図) 確かに、こちらの櫃沢は、思川沿いでもなく、ちょっと場所の離れた所にあるので、 小山義政伝説に結びつかないかもしれない・・・ 話は変わるが、この加園にある”加園城”、そして前を流れる荒井川の上流には”久我城”が存在する。 前から思っていたのだが、この加園城と久我城をつなぐ谷間には、結構距離があるのに城が確認されていない。 この地域の特徴として、各城々は、お互いが連絡しやすい場所に城を築く。 もちろん、久我城と加園城の城主が違っていたからだ!と言われればそれまでだが。。。 しかし、この 加園ー久我 間には、珍しく城がないのである。 なんでだろう? そこで、良く見てみると、両城の間にあるのが、どんぴしゃ、この”櫃沢”なる地名の場所である。 ◆地理院3D 加園城には、1500年代、渡辺氏なるものが宇都宮氏家臣として存在し、この地を守っていたという。 渡辺氏はその後、小山氏についたという。 もちろんこの頃の小山氏は義政直流の小山氏ではない。 しかし、小山氏・・・というところで、なにか繋がりが無くなったというわけでもない。 ひょっとすると、小山義政は、”寺窪の城”を逃げ出し、 ここ加園の地まで落ち延びてきたのでは・・・??? もし、この ”加園の櫃沢” に、城郭遺構が見つかれば、 新たな義政伝説が生まれることになる!! なんか、断然やる気が出てきたぞ!! ・・・・・(※後日談は情報調査で) _________________________________________ さて、再び、自刃の地・粕尾城を望む。 今は、こんなのどかなのになぁ~。 つづく |
第4回 調査終了/修正調査 その2 2016/04/20 AM9:00~PM12:30 公開 |
こ、こ、これは・・・・・・栃木の ごっ 調査完了したときに、そう思った。 当時の人に、稜堡式の城郭の発想はまだないだろう。 こう見えるのは、おそらく偶然なんだろう。 兎に角、結局、4日もかかってしまった。 やはり、このような縄張りの城は、形がつかみづらい。 内部が酷い藪である。 第3回でも書いたが、城の内部はかつて畑であった。 それが今は放棄され、小竹の生い茂る藪になっている。 なので、内部の段差は築城当時からのものか、かなり怪しい?のである。 それに対し、城の外周の壁は、まず間違いなく当時からのものであろう。 4日目にして、なんとか辻褄をあわせ、それなりの縄張り図に仕上がった。 次回は解説に移りたい つづく |
第3回 修正調査 その1 2016/04/16 AM9:30~PM1:30 公開 |
第二回で失敗した理由がわかった。 下の図を見ていただこう。 国土地理院の1975年の航空写真である。 綺麗な堀のラインが見えるではないか!! ここで、写真上部。 北の堀を見ていただきたい。 思った以上に鋭く鋭角に曲がっているのが見て取れる。 この角度を管理人は間違えた。 だから、縄張り図が合わなかった。 ◆ マウスを乗せよう 綺麗な堀のラインと山の谷間中心に畑が見える 今日は、ここを現地を訪れ徹底修正した!それが、以下。 前回書いた縄張り図とは、全く違う位置関係となった。 俺のうでもマダマダだな。 それにしても、この古写真を見ると、かつて曲輪内部が畑であったことを示す。 今は、このような畑は全くない。 だから谷内部の藪が激しいんだろうな。。。。 畑を放置すると、激藪の温床になる。 次回は、同じように南の尾根も描き直しだ。 今度こそ合うかな。。。。 また、合わなかったりして・・・・ つづく |
第2回 調査失敗 2016/04/11 公開 |
粕尾城は、おもしろい縄張りをしている。 先学の縄張り図だと、頂点の主郭から派生する2つの尾根に曲輪が広がり、 その尾根間にある谷で、縄張りが閉じる形をしている。 このような構造の城は、必ず最後の谷の集結点で狂いが生じる。 所謂、形の掴みづらい、縄張り図書き泣かせの城である。 そこで、管理人が考えたのは、まず、外周部をすべて書いてしまおうという作戦。 そして、半日かけて描いたのが下の図。 ” まあ、こんなもんで大体いいかな。 ” あとは、内部を書いて辻褄を合わせれば完成だ!! ◆失敗。内部が全然合わない ・・・・・・・・・・・・・・と思ったらギッチョン 内部の曲輪が、まったく合わない。 どーごまかしても、ごまかしきれない。 『だめだ~\(◎o◎)/! この作戦。全然だめ!』 やり直し・・・・・だな。 AM10:00~PM3:00。 約5時間の調査が全く無駄になった。 ---------------------------------------------------------------- 失敗した記念に、城下の森薬師堂の桜を掲載しよう なんのこっちゃ! つづく |
また、でかい城に手ぇ付けちゃった 第1回 2016/04/09 公開 |
この城は、当時の幕府に背いた”小山義政”の終焉の城ということで、あまりにも有名。 しかし、私にはそんな歴史はどうでもよくて、 義政の時代14世紀後半の城がどんなものか??? というところが楽しみであった。 さて、早速行ってみよう。 _____________________________________________ 車は大手口前に少々スペースがあるので、そこに駐車させていただく。 山に取り付いて早速思ったのだが、 『この城。 で、でかいぞ・・』 尾根にそって、大きな空堀が並行している。 広くダランとした尾根上には、いくつかの切岸が残る。 内部は区画されていたようだ。 ◆本日の成果・・久々の城見学なので苦労した。 おそらくこの先が、主郭であろう。 堀切が見えてきた。 ←が撮影方向 主郭に着いた。 主郭には小さな祠が祀られている。 主郭先端まで行くと、そこは断崖絶壁。 あまり高さはないのだろうが、直角に落ちている。 『 こわっつ!』 ●を示す 今回は、南北に走る尾根の頂点部を描いた。 小さな曲輪を堀切で区切る。 ●を示す 山の斜面には、長い縦堀も残る。 ●を示す その先には・・・・・・・・ 長塁が姿を現した! ←が撮影方向 つづく |