2022

茂木市2  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。 

千本城sk 1回 2回 3回 4回 千本陣屋(写真のみ)




千本城電子国土・位置のリンク


    【城の概要】
       
    千本城を治めた千本氏はもともと那須氏系に氏族であった。
    戦国期、騙し騙される時代に流された千本氏は一旦滅亡する。
    その後、佐竹系の茂木氏が千本氏を継ぎ、関ヶ原では東軍につき、所領を安堵され、その後旗本となった。

    千本城は主郭中心のみ、馬出の使用や、枡形門など、優れた縄張りを持つ。
    しかし、広大な城域のわりには、堀の使用が極めて少ない。
    しかも、関東の中世の山城にしては、曲輪取りが非常に大きく珍しい。

    よって管理人は、現在見られる縄張りは、戦国時代を下り、近世に近い時代に普請されたと考えている。
     


       ◆彩色図


       ◆千本城縄張り図



                                        

 千本城 第1回  下剋上の城 2011/11/12  またまた途中ですが・・・・


解説】

千本城には、なんとも戦国時代の無残な話が伝わる城である。
それは、軽く前述述したので、図面が中途半端であるが、遺構を紹介しよう。


【本丸】
  ◆本丸に鎮座する羽黒社



  ◆拝殿から本丸虎口方向を望む



  ◆拝殿まわりの土塁



 ◆本丸から馬出への虎口(本丸内部から望む

         
                      

 ◆本丸を囲む土塁(東縁)

        
                       



【馬出し】         
 
 ◆本丸~馬出し180度全景

      
                        
●↓マウスを乗せよう↓●
 



 ◆馬出し壁
        
                   




◆馬出しから本丸土橋を見る
          
                  



◆馬出し壁面


        
                    




【2の丸西側】


◆本丸角を見上げる

    
   畏                           
  
◆内部

 
                          



【2の丸東側】

 ◆虎口内側から
      
                       
 


 ◆虎口外から
                
                       



    ◆展望台から千本城全景
       


     ◆展望台から南方面を望む
       



【3の丸】


 ◆大手枡形門
      
      

 

 ◆枡形から3の丸上段をのぞむ 字名町田

      
      

 

 ◆3の丸上段

      
      

 

位置(マピオンへのリンク)


 千本城 第2回、第3回  2011/1/15 2011/01/27

2012年になって1月15日、1月27日で千本城を書き終えた。

現在浄書中であるが、ここで特筆したいことがある。

下記の写真を見ていただこう。




                

 



これは、上図馬出しの根元にある石垣である。


しかも、算木積みに見える。

少なくとも角を出しているのは確か。

果たして、神社創設のものなのか、城当時のものか?

謎である。














  

 これは本丸西下の曲輪。
 スロープ状の土橋で、堀を渡る。
 
 早く図面を仕上げて、お伝えしたい。

 




太平寺は、千本城(千本氏)の悲しい歴史の刻まれた地である














 千本城浄書  2012/02/17

  千本城の浄書をはじめた

  私の浄書は、現地調査図の大きさのままで行う。

  縮小しての浄書は絶対しない。

  それは、”現地での調査図が、何より正確だ”という考えからだ。
  現地に行って直接書いてるんだから当然だろう。
  距離も、方向も、イメージも一番だ。

  下地の地形図は、スケッチブックの大きさの関係で、やむなく分断された調査図の接続用だ。
  あくまで参考に使用する。


  私が原寸にこだわるのには訳がある。

  縮小すると、スペースの関係からケバ線も少なくならざるを得ない。
  図面全体の迫力や、バランスが絶対に崩れる。
  原寸であれば、現地で見たままのイメージで、修正や浄書が出来る。


  しかし、当然大きな城は、必ず図面も大きくなってしまう欠点もある。
  それは、それで仕方あるまい。

  今回も完成に時間がかかりそうだが、まあ、気長に行くしかないな。

                



 千本城浄書2 ラフ完成 2012/06/08

  城に行けない季節になった。
  浄書始めから、早4ヶ月。
  一応ラフ画が完成した。

  分割された調査図を貼りあわせてみると、不確かな点が数知れず。
  あと数回修正調査しないと、ペンは入れられないなぁ~

      

                



 千本城 第4回  五年ぶりの再訪!    2016/11/26

  前回の浄書から、はや四年が経ってしまった。
  調査日から数えると、もう五年も経ってしまっている。

  なぜ、こんなに時間がかかっているかというと、浄書の最中に矛盾が生じたからだ。
  結局、この矛盾点を修正することを怠り、五年も経ってしまった。

  矛盾の生じた原因は、当初はフレックス縄張り図方式を使わずに、図を何枚もの紙に分割して描いていたからだ。
  浄書の際にツギハギにすると、どうしても図面の繋がりが悪くなる。
  結局、線と線が繋がらない部分が発生し、あれ?どうだったっけな???となってしまう。

  また、浄書を怠った理由は、当時のわたしは地形図の等高線に捕らわれ過ぎていたからである。
  国土地理院の地形図を拡大し、そこに縄張り図を貼り付けることに必死になっていた。
  今思えば、そんな事は絶対無理なのに、なんとか地形図に無理くり乗せようと、もがき苦しんでいたのである。

  なので、ひさしぶりに浄書途中の図面を見ると、すこぶる出来が悪い。
  五年も立つと、さすがの管理人も明らかに腕が上がっている。
  「昔は俺も大したことねーな」と、改めて思うのである。

  でも、このままにしていてはもったいない。
  とりあえず、五年前に矛盾点でつまづいたところを再調査して、浄書を完成させよう。

  しかし、時間もないし、現時点の実力が発揮できるのは、ほんの一部分。
  他、九割が、五年前の私の実力が描いたものである。
  おそらく、今回補正調査しても、うまく合わないんだろうな。。。100パーセントの解決はできないだろう。。。。。
  そう思いつつ、ふたたび千本城へ赴いた。


  千本城に足が向いたのには、もう一つワケがある。
  それは、五十四年ぶりに11月24日に降った雪のせいである。
  結構な積雪で、宇都宮近辺も5cmほど積もった。

  ”山に行っても、どうせ溶けてない。・・・・・・・・”

  ・・・そんな理由もあって、一城丸々、見学はできないなと思ったからである。
  このような時は、補正調査程度がちょうど良い。

  長々と書いてしまったが、そんなわけで千本城に来てみたわけだ。
                ________________________________________




さて、五年ぶりに千本城にやってきた。

主郭近くまで来ると、日陰は
予想通り、雪が結構残っている。
↓写真右手の黄色の部分は馬出である。

          


  この馬出が黄色いのは、イチョウの葉っぱが、馬出半分を覆っているからである。
  階段より向こう側半分は、イロハモミジである。
  オレンジと黄色のコントラストが、馬出をデコレーションしている。

   



  主郭の鳥居も、五年前の写真と比べると、塗り替えられたようである。
                                  



   
これは、大手枡形門付近のモミジである。

色々な色が混じり合い、そのグラデーションたるは、”美しい”の一言に尽きる。

        






                 ( 彩色図も完成したので、これでコンプリートとさせてください))




千本陣屋電子国土・位置のリンク

 千本陣屋  よく、場所が間違ってます  2016/12/09

  千本城の麓、字 ”大門” に千本陣屋がある。

  先学では下の写真の標柱を掲載し、ここを陣屋跡と紹介するものがある。
  また、写真の石垣を千本陣屋の石垣としてしまっている(残念!)
  それは
大きな誤りである

  この標柱は、千本陣屋への導入口を示すもの。
 
    



正しくは、この柱の右手、細い道を山側に向かって入っていこう。


◆↓車は、この標柱の目の前に置ける。






  道を上がると、大きな看板が見える。
  その傍らには、1mほどの石垣が10mほど見られ、これが千本陣屋の跡とする。
  看板では、この石垣を千本陣屋のものとしている。


        ◆こちらが本当の解説看板                                    ◆石垣
 
   

       

千本氏は小田原の役に豊臣方として参陣し、所領を安堵されている。

看板によると、
山の上にある千本城が不便なため、千本家家老の大谷津家が
この地に陣屋を構えた。
昭和9年の火災まで、その屋敷は現存していたようだ。
なくなってしまったには、非常に残念である。















                            (写真のみだが、とりあえずコンプリート)





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