2022
茂木市2 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
千本城sk | 1回 | 2回 | 3回 | 4回 | 千本陣屋(写真のみ) |
千本城電子国土・位置のリンク
【城の概要】
千本城を治めた千本氏はもともと那須氏系に氏族であった。
戦国期、騙し騙される時代に流された千本氏は一旦滅亡する。
その後、佐竹系の茂木氏が千本氏を継ぎ、関ヶ原では東軍につき、所領を安堵され、その後旗本となった。
千本城は主郭中心のみ、馬出の使用や、枡形門など、優れた縄張りを持つ。
しかし、広大な城域のわりには、堀の使用が極めて少ない。
しかも、関東の中世の山城にしては、曲輪取りが非常に大きく珍しい。
よって管理人は、現在見られる縄張りは、戦国時代を下り、近世に近い時代に普請されたと考えている。
◆彩色図
◆千本城縄張り図
千本城 第2回、第3回 2011/1/15 2011/01/27 |
2012年になって1月15日、1月27日で千本城を書き終えた。 現在浄書中であるが、ここで特筆したいことがある。 下記の写真を見ていただこう。 これは、上図馬出しの根元にある石垣である。 しかも、算木積みに見える。 少なくとも角を出しているのは確か。 果たして、神社創設のものなのか、城当時のものか? 謎である。 これは本丸西下の曲輪。 スロープ状の土橋で、堀を渡る。 早く図面を仕上げて、お伝えしたい。 太平寺は、千本城(千本氏)の悲しい歴史の刻まれた地である |
千本城浄書 2012/02/17 |
千本城の浄書をはじめた 私の浄書は、現地調査図の大きさのままで行う。 縮小しての浄書は絶対しない。 それは、”現地での調査図が、何より正確だ”という考えからだ。 現地に行って直接書いてるんだから当然だろう。 距離も、方向も、イメージも一番だ。 下地の地形図は、スケッチブックの大きさの関係で、やむなく分断された調査図の接続用だ。 あくまで参考に使用する。 私が原寸にこだわるのには訳がある。 縮小すると、スペースの関係からケバ線も少なくならざるを得ない。 図面全体の迫力や、バランスが絶対に崩れる。 原寸であれば、現地で見たままのイメージで、修正や浄書が出来る。 しかし、当然大きな城は、必ず図面も大きくなってしまう欠点もある。 それは、それで仕方あるまい。 今回も完成に時間がかかりそうだが、まあ、気長に行くしかないな。 |
千本城浄書2 ラフ完成 2012/06/08 |
城に行けない季節になった。 浄書始めから、早4ヶ月。 一応ラフ画が完成した。 分割された調査図を貼りあわせてみると、不確かな点が数知れず。 あと数回修正調査しないと、ペンは入れられないなぁ~ |
千本城 第4回 五年ぶりの再訪! 2016/11/26 |
前回の浄書から、はや四年が経ってしまった。 調査日から数えると、もう五年も経ってしまっている。 なぜ、こんなに時間がかかっているかというと、浄書の最中に矛盾が生じたからだ。 結局、この矛盾点を修正することを怠り、五年も経ってしまった。 矛盾の生じた原因は、当初はフレックス縄張り図方式を使わずに、図を何枚もの紙に分割して描いていたからだ。 浄書の際にツギハギにすると、どうしても図面の繋がりが悪くなる。 結局、線と線が繋がらない部分が発生し、あれ?どうだったっけな???となってしまう。 また、浄書を怠った理由は、当時のわたしは地形図の等高線に捕らわれ過ぎていたからである。 国土地理院の地形図を拡大し、そこに縄張り図を貼り付けることに必死になっていた。 今思えば、そんな事は絶対無理なのに、なんとか地形図に無理くり乗せようと、もがき苦しんでいたのである。 なので、ひさしぶりに浄書途中の図面を見ると、すこぶる出来が悪い。 五年も立つと、さすがの管理人も明らかに腕が上がっている。 「昔は俺も大したことねーな」と、改めて思うのである。 でも、このままにしていてはもったいない。 とりあえず、五年前に矛盾点でつまづいたところを再調査して、浄書を完成させよう。 しかし、時間もないし、現時点の実力が発揮できるのは、ほんの一部分。 他、九割が、五年前の私の実力が描いたものである。 おそらく、今回補正調査しても、うまく合わないんだろうな。。。100パーセントの解決はできないだろう。。。。。 そう思いつつ、ふたたび千本城へ赴いた。 千本城に足が向いたのには、もう一つワケがある。 それは、五十四年ぶりに11月24日に降った雪のせいである。 結構な積雪で、宇都宮近辺も5cmほど積もった。 ”山に行っても、どうせ溶けてない。・・・・・・・・” ・・・そんな理由もあって、一城丸々、見学はできないなと思ったからである。 このような時は、補正調査程度がちょうど良い。 長々と書いてしまったが、そんなわけで千本城に来てみたわけだ。 ________________________________________ さて、五年ぶりに千本城にやってきた。 主郭近くまで来ると、日陰は 予想通り、雪が結構残っている。 ↓写真右手の黄色の部分は馬出である。 この馬出が黄色いのは、イチョウの葉っぱが、馬出半分を覆っているからである。 階段より向こう側半分は、イロハモミジである。 オレンジと黄色のコントラストが、馬出をデコレーションしている。 主郭の鳥居も、五年前の写真と比べると、塗り替えられたようである。 これは、大手枡形門付近のモミジである。 色々な色が混じり合い、そのグラデーションたるは、”美しい”の一言に尽きる。 ( 彩色図も完成したので、これでコンプリートとさせてください)) |
千本陣屋 よく、場所が間違ってます 2016/12/09 |
千本城の麓、字 ”大門” に千本陣屋がある。 先学では下の写真の標柱を掲載し、ここを陣屋跡と紹介するものがある。 また、写真の石垣を千本陣屋の石垣としてしまっている(残念!) それは大きな誤りである。 この標柱は、千本陣屋への導入口を示すもの。 正しくは、この柱の右手、細い道を山側に向かって入っていこう。 ◆↓車は、この標柱の目の前に置ける。 道を上がると、大きな看板が見える。 その傍らには、1mほどの石垣が10mほど見られ、これが千本陣屋の跡とする。 看板では、この石垣を千本陣屋のものとしている。 ◆こちらが本当の解説看板 ◆石垣 千本氏は小田原の役に豊臣方として参陣し、所領を安堵されている。 看板によると、 山の上にある千本城が不便なため、千本家家老の大谷津家が この地に陣屋を構えた。 昭和9年の火災まで、その屋敷は現存していたようだ。 なくなってしまったには、非常に残念である。 (写真のみだが、とりあえずコンプリート) |