2019
那須烏山市
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
【城の概要】 高館城は大将古屋城の山麓に位置する。
大将古屋が烏山側の城とすれば、ここもそうなるのだろう。
ただ、急ごしらえ感が強く、烏山を攻める佐竹側の城と言ってもおかしくないように思える。
◆高館城(下境)彩色図
レポート 街道監視の城 2016/11/13 |
高館城はちょっと変わった所にある。 ↓地図を見ていただこう。 高館城は、現在の県道からも離れてるし、西側前面にある山の陰にもなっている。 平地からちょっと離れた、奥まった場所にあるのだ。 よって、那珂川べりの平坦地から、ガツーンと視覚的インパクトを与える威圧感が減少している。 ”なんで、こんな奥まった所に城を築くのだろう?” 不思議である。。。。。 ◆高館城は平地部に接することなく、奥まった所に立地していることがお分かりになると思う そこで! 改めて地図を見てみよう。 高館城の西すぐ横に、那須氏の居城、稲積城という巨大な城がある。 その隣は那珂川である。 那珂川は、稲積城のある広い河岸西を南北に下る。 改 川は、稲積城から南先で、両岸を山に挟まれる。 那珂川の川幅が、急に狭まっていることは、地図を見れば明白である。 そこで管理人は閃いた! ◆電子国土より 川幅が狭まることにより、 かつての那珂川は、『稲積城より南は氾濫しやすかったのでは?』 なかろうか? 左図では、赤い網掛けのところが氾濫原と考えられる。 現在は、県道が那珂川べりを走るものの、 往時の街道は、内陸を通っていたのではなかろうか? ではその道は、 左図の黄色の道であった可能性が高そうだ。 つまり、 この街道は、 高館城や大将古家城の直下を通っていたのである。 このように考えると、この城の意味が見えてきたような気がする。 そうである! 高館城は、稲積城の直前で、 河川敷に入ってくる交通を監視するためにできたと考える。 よって、地形的に見ると、高館城は那須氏側の城と考えられるのだ。 ◆電子国土より ◆ 黄色の道の谷写真。 高館城の西、山と平地の境界には道祖神が佇む。 管理人の推理を裏付けるものだろうか・・・・・・。。 ____________________________________________________________ 管理人は早速現地に赴いた。 さて、話を戻して、 車は高舘山の麓、解石神社近辺に置く。 駐車場所近くには砂防ダムがある。●印、道路が広がった所が今回の駐車場。 ◆Google Mapより ↓写真は、砂防ダムにつながる沢である。 もちろん、城へ行く道なんか無い。 なので管理人は、沢を越え、城に続く尾根に取り付く事を決めた。 管理人が取り付いた尾根は↓写真の尾根である。 わりと安全に、簡単に登れる。 ◆アプリやまやま より ____________________________________________________________ 【解説】 ◆現地縄張り図 しばらく登ると、主郭に到着。 キレイに切岸が並ぶ。 写真ではわかりづらいが、主郭から望む雲海。 主郭西の尾根を下る。 尾根には曲輪のような、そうでないような微妙な空間がある。 それにしても、紅葉が綺麗だ。 場所変わって、主郭南東の緩い尾根。 その防御のため、しっかりとした切岸の曲輪が確認できる。 その曲輪下には、かなり埋まっているが 明確に横堀が巡る。 横堀の端末は、縦堀で処理されている。 この城の南東、尾根続きの遮断施設と考えられる。 さて、主郭からかなり降りた北斜面にも曲輪が点在する。 その位置を示したのが、下の地図である。●印 管理人の考えとしては、登城口の跡と考えている。 その途中、途中に関所を設けていたのではなかろうか? ____________________________________________________________ 一通り見学し、下山した。 山深い位置にある城であるが、はっきりした遺構の城で、面白かった。 流石に年齢的・体力的に、ここから尾根続きの大将古家城まで足を伸ばせなかった。 それは、次回ということで・・・・。 (高館城コンプリート) |
高館上の城 城の位置電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
おっ!やっぱあるんだ・・・。 2016/11/13 |
【解説】 ホームページ 『余湖くんのお城のページ』 によれば、 高館城の東の別峯に”高館上の城”(ホームページで命名された名前をそのまま使用)が確認されている。 位置は、下の図の●である。 ◆YAMAPより 行ってみると、●のピーク頂点は平坦となっているが、 積極的加工をしていないようだ。 北方はダラーンとした自然地形である。 ”こりゃ、ダメかな・・・” と思い、ちょっとがっかりしながら、南につづく尾根に向かった。 __________________________________________________ __________________________________________________ すると、 切岸が一箇所施されている。 ◆南尾根続き切岸◆ さらに南に続く尾根を下ると、そこに、明確な堀切が現れた! 結局、遺構として認められるのはこれだけである。 位置からすると、 高館城を補佐する役目の施設だった事は間違いない。 要は、高館城の一部である。 ここを敵に占拠されてしまうと、高館城が丸見になるからだろう。 (コンプリート) |
『高館下の城??』 城の位置電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
【概要】
細い尾根上に6箇所の堀切状遺構が残る。
管理人はこの細い尾根上が、かつての街道の跡であり、
ジグザグに尾根上を歩かせる訳には、極めて城郭的な意味があったと想像する。
これ、城とは言い難いが・・・ 2017/01/06 |
先日踏査した高館城であるが、 管理人の推理としては、地形図に山道が示されているように この城の西谷がかつての街道であり、 これを監視するための城跡ではないかと考えた。 (地図上”当初の街道と考えた道”) ただ、この谷は現在もかなり切り込んでいるらしく、荒れているらしい。 今と昔とでは道の状態も違うであろうが、 水が流れやすく、道が荒れやすい谷間より、他を通したほうが道の保全が 安定できるよな。。。。という新たな疑問が生まれた。 また、気になるのが高館城に行ったとき見つけた 『道祖神』である』。 この道祖神があるということは、ここからのびる細い尾根(地図の薄青エリア) がかつての街道では?? ひょっとすると、城があるかもしれないぞ・・・ 管理人はそんな期待を持ったのである。。 ◆電子国土より ◆今も残る道祖神 掲示板の解説では、ここから那珂川への船の出入りがあったと言う ____________________________ 車は、町が設置した”大将古家”の道標近くに置く。 ここから今回の目的地の峯を歩くのは楽勝である。 歩き始めると、早速昔の峠道の跡が確認された。 現在の道は、両側をコンクリートで固められた切通しとなっているが、 ここも切通し状になっている。 この切通しの道を降りたわけではないが、おそらく現在の舗装道と合流するのだろう。 ここを過ぎると小さな塚群があり、尾根幅が段々狭くなってくる。 すると、ポツンと堀切状の遺構が出てきた。⑥ ただ、両側が縦堀になっておらず、城のものと断定するには困難だ。 ⑥ ⑤ またしばらく歩くと、同様の堀切状遺構が出てくる。⑤ その先には大そう立派な ”秋葉山” と銘記された大きな碑が出てきた。 普段誰も通らないような場所に、この様は碑が建っている・・・・ ・・・・ということは、やはりかつてここには人の往来があったということなのか? 碑には明治7年と記銘があるから、結構古いものだ。 見ると、この碑の下にも、やはり切り立った堀切状の遺構がある。④ ④ ④から碑の方を見上げる ③ ④からさらに北に向かうともう一つ堀切状の凹みが出てくる。。。。 ③ ②さらに北に向かうと、西面のみ切り込みがある場所へ出る。。 ② 写真はないが、②の先に①の堀切状遺構が残っており、ここが最後となる。 ①からは同じく西の斜面に向かって、道状のものが残る _______________________________________ 結果、合計6本の堀切状遺構がこの細尾根上に存在する事がわかった。 当たり前だが、この尾根からは谷越しに高館城が良く見える。 ____________________________ さて、これらの堀切状の遺構は何なのであろう? 堀切状部分があまりに多すぎるため、峠越えによくある、切通しの道の跡とは考えられない。 尾根を垂直方向に横断するような道が、はっきりしないからだ。 となると、これらの遺構は尾根沿いにジグザグに進む道の跡と考えられる。 先述したが、この尾根の先端最麓部には、町指定の古い道祖神がある。 ここには、中世っぽい五輪塔も存在している。 この尾根が、かつての街道として利用していた可能性が出てきた。 しかし、道ならなんで、ジグザグに歩かせるのだろうか? 急斜面でもないので、直線の道で十分だ。 管理人には、これらの遺構から まっすぐ歩かせたくない意思 が、伝わってくるのである。 浮かび上がるのが、防御、または攻撃のための折の役目と考えられる。 そうなると、これらの遺構は、城とも言えるのではなかろうか・・・・?? 確かに城と街道には、密接なつながりがある。 北の関ヶ原に代表される、日光と福島を結ぶ山王峠など、九十九折れの道、細尾根の連続切通を城郭遺構とする考え方もある。 (中田正光/三池純正著 北の関ヶ原合戦 洋泉社2011 ) 良くわからないところが多いのであるが、 当ホームページでも、本遺構を城郭的な意味を持って作られた道・・・とでも評価しておこうか。 高館上の城と呼応して、 ”高館下の城?” ?と呼称して置こう。 これのほうが、、ロマンがある。 帰りに寄った那珂川の下野大橋。 ここには風情のある川船が集結する。 ここで釣りをする人たちは、 何とものんびりとした時間を過ごしていた。 (コンプリート) |
レポート これ、城?? 2016/11/20 |
【プロローグ】 高館城のさらに上に大将古家城はある。 ちょっと山深いところにあるので、行くのをためらっていた。 先学の ”余湖くんのお城のページ” では、 烏山市設置(当時は烏山町か?)の 『大将古家城』 の案内板に従い、登城されたようだ。(下写真) ◆通常の登城路入口。今も案内板がある。 しかし、このルートは意外に距離があり、大変らしい。(下図、案内版ー通常の登城道のルート) そこで、今一度地図をよく見てみると、城の南に林道が走っている事に気づいた。 ”お!いいじゃん!” この林道の●地点まで車で行き、そこから歩けば、かなり近い。 しかも比高差も少なく、ユルユルな峯を歩くだけで、城跡に行ける。 楽ちんである。 ◆YAMAPより __________________________________________ ・・・・・ということで、 ・・・・現地にやってきた。 山を登る林道は、多少狭目の道であるが、運転に支障はなかった。 車を路肩に置き、早速準備にとり掛かる。 しかし、前日はひどい雨だった。 登城当日の予報は晴れであったが、 朝から、ご覧のようなひどい霧である。 ◆キリの駐車場所周辺 _________________________________________ 駐車場所から山を登り始める。 いきなり草ボーボーである。 階段はあるのだが、全く草刈りがされていない。 それを無視して歩き続けると、すぐ、お堂がある。 お堂の先は、道なき道となる。 しかし、思ったとおり、高低差はほとんど感じられず、楽な登山だ。 ◆道なき道を歩く _________________________________________ ◆YAMAPによる 地図では、東西に横断する林道とクロスするはずである。 しかし、そんな道には出会わず、現地に着いてしまった。 地図上にある三等三角点が下写真である。 ◆三等三角点 |
【解説】 まず、管理人の感想。 『これ、本当に城?』 である。 たくさんの資料が、当地を城跡として肯定している。 しかし、もし、ここが城跡だったという資料が無ければ、管理人は間違いなく城跡として認めていないだろう。 そんなレベルなのである。 城の主郭?と思える最頂部が、下の写真である。 主郭に相当する三等三角点の山頂付近は、確かに平場となっている。 ただ、その周りの切岸は明確ではなく、自然地形である。 その南北につながる峯も、だらんと緩傾斜である。 ここも自然地形である。 しかしながら、南北峯共に、三角点から10~20mほど下った所に、 切岸が2段存在する。 この方向からの敵を監視するための場所、と言えなくもないが、 曲輪にしては幅も狭く、断言できない。 曲輪の写真を撮ったのだが、全くうまく撮れない ぜんぜん分からなくて m(> <*)m スミマセン。 今回、この山に到達するために、下図のルート●●●●を管理人は歩いてきたが、 この山塊には、人工か、自然か、迷う段差が多数点在する。 やはり、前述の切岸?も自然のものなのだろうか? 自分の判断に全く自信が持てない。 ◆YAMAPより 各資料は、大将古家を那須氏が佐竹氏に備えた城としている。 しかし、遺構はこの程度。。。。。 陣城にしては、まわりの地形が開けすぎている。 陣城だとしたら、もうすこし堀などの防御が、佐竹方向(東、南)にあってもいいものだが・・・・。 |
【エピローグ】 帰途についた。 再び道なき道を戻る。 実は、見学の途中から木についた雫でスケッチブックはグチョグチョ☂。 最後の方では鉛筆が全く乗らない状態である。 線を書こうとした瞬間に、紙が破れてしまう。 なんとも消化不良な調査であったが、目的は達成することができた。 気分的には満足である。 帰りに国見峠、国見のみかん園を見学して、家路についた。 (大将古家コンプリート) |