2019
佐野市
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
城之山城sk | 寄居城sk |
城之山城sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
高いと、まだ山も綺麗なんだな 2016/5/14 AM 10:00~PM2:00 公開 |
メタボのらく印を押されてしまったワタシ。 なるべく運動しようと、あえて標高の高い山城に行くことにした。 今回出かけたのは、久々の佐野市。 旧、田沼町史に載っている、『城之山城』(きのやまじょう or しろのやまじょう、読み方は不明)に出かけた。 この城は標高450m、比高250mの山城だ。 城への登山道はない。 麓の安養寺に車を置き、その谷間から登るのが手っ取り早いのではなかろうか。(上の電子国土を参考にされたい) お寺は無人?で、人もいないが、駐車場やトイレ、 手洗い場など綺麗に整っている。 山登り後に利用させていただいた。 管理人は、下の写真の道路の奥から、山に侵入を開始。 ◆やまやま 管理人GPS軌跡 左図・S地点より山登りをスタート。 しばらく谷間に道が続くものの、ほどなく無くなってしまう。 谷にどんつきの後は、西に軌道修正し、尾根面を直登だ。 左図・E地点近く。 ぜいぜい言いながら、やっと頂上付近が見えてきた。 ◆現地縄張り図 |
【解説】 ◆城之山城彩色図 主郭に到着。 思ったより、綺麗で明確な切岸が確認できる。 郭の中には低い土塁が巡る。 南方には切岸が崩れているところがあり、よく見ると、どうも虎口痕のようだ。① 主郭から下る道も、うっすらとたどることができる。 主郭から北方に下ってみる。 約10mほど下方に、まず一本目の堀切②がある。 これが、ほんと、綺麗な堀切! 『バッさり!』 と、音が聴こえるような堀切だ。 堀切②は、細い尾根を断ち切っている。 その先には、2本目の堀切③がある。 この堀切には、土橋が併設されている。 堀切③の土橋 そこからしばらく歩くと、 尾根上に3箇所、岩が転がっている。④ ちょうど人が身を潜められる程度の大きさだ。 わざと置かれたのか? 自然のものか? 3箇所、ほぼ均等に置かれているところが、 人為的な感じも受ける。 3本目の堀切⑤に着いた。 ちょっと浅いこの堀切で、北方面の警戒は終了している。 再び主郭にもどり、今度は南東の尾根を下ってみる。 一箇所削平地⑥を越えると、やはり土橋付きの堀切⑦に出くわす。 ◆上位から堀切⑦を見下ろす こちらも、とてもしっかりした堀切だ。 写真左手が土橋になる。 土橋を伴う堀切が、 城之山城の特徴と言っても良いかもしれない。 ◆堀切の土橋を望む 再々度主郭に戻り、今度は西に延びる尾根を下る。 遺構は薄いが、ここにも土橋付きの堀切⑧が残る。 さて、その先なのであるが、 管理人は新たな堀切跡⑨を発見した。 堀はかなり埋まっているようであるが 間違いないだろう。 既存の田沼町史の縄張り図や、 他のWEBサイト上の案内図には 記載されていないものである。 上の土橋付きの堀切⑧から すこし離れたところにあるので、 見逃されたのだろう。 でも、 間違いなく城之山城の遺構である。 ◆堀切⑨を上から見たところ ◆横から見たところ 城之山城の歴史は明らかでない。 近隣の関係から、長尾氏の築城の可能性も秘めているが、まったくよくわからない。 わからないところが、すごく良いよね。。。。 以上が、今回のレポートである。 (城之山城コンプリート) ◆おまけ◆ 以下は安養寺にある宝篋印塔。 墓地の中から出てきたという。中世の匂いがプンプンする当地なのであった。 |
寄居城sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
もぉ、我慢できず.........2016年秋の初陣 2016/10/16 AM 10:30~PM 2:00 公開 |
10月半ばに入った。 もうそろそろかと、たまらなくなって出かけてしまった。 まだ草も多いだろうし、小さめで、手頃な城を探す。 そこで候補に上がったのが、佐野市「寄居城」。 比高100mほどの小さな城だ。 さて、現地に着いたが車を置くところがわからない。 仕方がないので、城を横目に、金原山に続く林道の小スペースに置いた。 ここから、細い峯に直登する。 そして南東に下り、城に達する作戦である。 ◆YAMAPより。駐車位置は●の地点 細い峯に到着すると、いきなり堀切状の遺構に出くわす。 しかしよく観察すると、堀の両端は道につながっており、”切通し”である事がわかる。 ◆堀切か!・・・いや、切通しです。 ◆現地縄張り図 |
【解説】 ◆現地縄張り彩色図 先述の切通しから細い峯をしばらく登ると、寄居城の最外郭の堀切に到着。 ”堀切か”と図面に書いたのは、田沼町史の先行図のあるおかげで、普通に歩いていたら気づかないような代物である。 斜面に降り、堀切を下から臨めば、なんとなくそれっぽい。 先学の観察力に完敗だ! そこから城の中枢に向かい、山の斜面は上り始める。 すると、2本目の堀切と思われる遺構に出くわす。 先ほどの堀切とは違い、もう少し明確なものである。 この城全体に言えることなのだが、遺構は、かなり荒廃している。 古い時代の物だからなのか?それとも地山が崩れやすいのか?・・・・ とにかく崩れが激しい! ←左写真 ここにはたしかに、上位の曲輪方向に高い壁が見受けられる。 土橋?のような残存もある。 両袖は縦堀となり、南北に降りていたようだ。 縦堀は、南側は割とはっきりしているが、壁の崩れが激しい。 南は縦堀形状はわかるが、 壁はほとんど、ボロボロである。↓ ↓北の縦堀?はかなり曖昧な残存状況だ。 この堀切を登り詰めれば、主郭が近い。 主郭の一段手前には、成形の甘い曲輪がある。 主郭に向かっては、スロープ状の登り口が付いている。写真↓ 主郭である(地図●)。 標高240m 小さな祠が鎮座する。 ◆YAMAPより 主郭は異常な程狭い。 ”寄居”というくらいだから、本格的な城郭というよりは、補佐的な意味を持つ施設だったのかもしれない。 下は主郭一段下の曲輪の写真であるが、ここから北側には、階段状に曲輪が続く。 主郭北山腹には、幅が1mにも満たない階段状の曲輪が何段かある。 ただ、これは樹木に崩れた土が溜まって出来た自然地形かもしれない。 寄居城は歴史不詳の城である。 正面には長谷場城も存在し、両城の関係をうかがわせる。 (寄居城 コンプリート)) |