2019
鹿沼市11
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
2002年に確認された城 2015/10/09 2015秋~初陣~ |
老沢城は、「鹿沼市の城と館」発刊後に発見された城だ。 当ホームページの掲示板の”上沢さん”の情報から、是非、今シーズン初めに訪城したいと考えていた。 ここんところ暇つぶし同然の低山登りばかりしてきた。 そんなことはもうやめて、城に行こう! 冬枯れにはまだ早い。 が、季節はもう10月である。 少し草も多そうであるが、なんとかなるだろう・・。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 老沢城は、久我城と荒井川を隔てた対岸、標高250mの山上にある。 車は、老沢集落の「古民家久我の庄」の目の前の空き地に留めさせていただいた。 ここは、農業体験のできるレンタル古民家なのだそうである。 誰もいないので、無許可で留めさせていただいた。(どうも、すみません) 気づいたのだが、古民家の写真バックに見えるのは、金ヶ沢城である。 つまりは、老沢城と金ヶ沢城は、光、狼煙などで連絡がとれる位置関係ということだ。 ■久々の制服にお着替え 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 さて、周囲を見回すが、城への登り道はどこだろうか?。 写真を撮り忘れたが、おそらく地元の小学生?が作った老沢城の看板が、お墓横にあった。 ” 荒井川をはさんだ久我城の反対側にある城です。山の頂上近くに曲輪や堀の跡が残っています。 久我城と同じ時代に使われていた見張り台だと思われます ” おいおい、小学生が作ったにしては、ちょっと的確すぎる解説である。 ■下写真・Google ストリートビューより(便利な時代になったものだ。こんな田舎道まで調査されている) ■老沢城看板 それはさておき、看板はあるものの、肝心な道が見当たらない。 さがしても、大した道は見つかりそうもないので、老沢城の看板裏のヤブ尾根に突入した。 ヤブと七転八倒・・・。 おまけに、この山は意外に岩石質で、岩を回避しながらヒーヒー登ることになった。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 登ること15分ほどであろうか、やっと主郭に着いたようである。 2時間ほどで、描き上げることができた。 ■現地調査縄張り図 |
【解説】 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 頂上の主郭には、麓の看板通り、 主郭前に浅い堀が巡らされている。 下写真中央に、主郭の縁がえぐられている場所がある。 主郭虎口である。 「鹿沼市の城と館」では枡形虎口と考えているようであるが、 普通の平入りの虎口とも言える。 虎口前面には、堀を隔てて小郭がある。 ここから橋を架け、 主郭虎口と繋ぐ事も考えられるが、主郭と小郭の高低差がありすぎる。 よって、 主郭に入る前に、一度この小郭に入れ、堀に一旦降りて、主郭虎口へ登る。 この方が、素直なような気がする。 主郭内部に入る。 正三角形の空間で、1辺は20m強ほど。 主郭南面には土塁が回る。 綺麗に整地された空間である。 ちょっとわかりづらいが、主郭前面をパノラマ撮影してみた。 手前が、主郭前の小郭。 堀を隔てて主郭となる。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 主郭を越え、西の尾根上には、堀切がある。 当城では一番立派な堀切で、縦堀が伴う。 しかし、それほど長いものではない。 堀切を下段の曲輪から撮影。西の尾根続きを遮断している。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 所変わって、 主郭から真東に伸びる尾根。 土塁を伴った曲輪が、 3段ほど並んでいる。 左写真はその先端部。 かなり埋まっているが、堀切である。 さて、この城の特徴とも言える遺構がこちら! なんと、堀切から北の谷間に向かって、堀が伸びる。 谷の中の削平がイマイチはっきりしないが、総じて技巧的な部分を感じる城である。 敵が東に開口する谷の中を上がってくることを想定している。 谷の中の敵を、谷の南北に位置する尾根から挟み撃ち攻撃ができるようになっている。 また、近隣の久我城、金ヶ沢城との位置関係をもう一度考えてみるのも、面白そうである。 久我城からは金ヶ沢城は見えない。 そこで、金ヶ沢城の情報(狼煙、光)を老沢城が受け取っていたのではなかろうか? それを久我城に伝える役目が、老沢城だったような気がしてならない。 (老沢城コンプリート) |
高谷殿(城の位置)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
あぁ、壊滅! 2016/10/24 |
今日は2016年のJAPAN CUP。 レース観戦前に、近隣の高谷殿を訪ねようと考えた。 この城は、「鹿沼市の城と館」掲載されている。 近世屋敷の遺構とも考えられるそうだが、堀が2重に囲う構造から察するに、城の可能性が高いようなに思える。 ◆鹿沼の城と館より では、早速行ってみよう! 現地に着いて、畑の作業をしている方に声をかけた。 私:「すみません、ここがお城跡だって聞いたものですから、ちょっと歩かせてください!」 ご婦人:「そりゃー、構わないけんど、この辺もすっかり変わっちまってねー。」 ・・と、なにか申し訳なさそうな感。 その後、トラックでやってきた男性にも声をかけた 私:「すみません、ここがお城跡だって聞いたものですから、ちょっと歩かせてください」 男性:「あー、昔の話ね」 それだけ言うと、トラックで爆走してしまう。 なにか、扱いが雑というか、めんどくさそう。 今までの経験上、大抵の場合は自分の土地、周辺が城跡だとわかっていらっしゃる方は、なんとなく対応が明るいもんだ。 なかには、よくぞ来てくれたとばかりに、大歓迎してくれる人も数々。 しかし、ここは違う。 なにか、妙な感じ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・でも、原因はすぐわかった。 行ってびっくりしたのが、下の画像。 周りには怪しい土盛りがイッパイ。 ”うそだろ、嘘だろ!” と思いながらまわりを歩く。 歩いていると、看板を見つけた。 特定事業の目的 『鹿沼土採掘地の埋め立て』 ・・・・ちゅーことは、一度削り取って、再び平にした跡ってこと????? 工事現場の傍らには、”高谷殿”の碑が・・・。 ということは、場所はやっぱり間違いない。 ここだけは、工事を免れたのか、土塁(?)が残る・・・・・。 とりあえず、図面は書いてみようかとペンを動かしたものの・・・・・・・・・悲しくなって・・・・・・・・・途中で辞めた。 家に帰って、かつての写真を探していたところ、 無残にも、真っ平らにされている現地の航空写真を見つけた。 ◆Google map 航空写真 また一つ、栃木の城が消えた・・・・・・・・・・・・。 (おしまい) |