2019

真岡市  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある

中村城 真岡城sk 八木岡城sk (桜町陣屋sk) 長沼(古)城





中村城・中字峰寺前
 電子国土・位置のリンク

 
copyright.2005 masaki
【解説】
現中村神社境内である。








真岡城sk 電子国土・位置のリンク


copyright2005. masaki
【解説】
天下の福田屋の東隣。
独立丘上に存在する。

市街化されているが、真岡小学校敷地の北側縁辺部には
往時の遺構がはっきり残っている。

その規模から、かなりの土木量の城であったことが
容易に考察できる。








八木岡城sk 
電子国土・位置のリンク

第1回 2007/01/07

copyright2007. masaki
平成19年1月7日。
水田の中に忽然と八木岡城は姿を現わす。

今日の天気は大荒れ。
すごい寒さに、おまけにすごい風だ。
折角来たので、見学をはじめる。
息子を連れて行ったのだが、彼はあまりの寒さに車に逃げ込んでしまった。



しかも今日はこともあろうに、コンパスを忘れてしまった。

よって方位、距離に難のある図面になってしまった
でも、図で、大枠の雰囲気はお伝えできると思う。











◆最南の堀      ◆虎口付近

城は、完全な独立丘に築かれていたたようで、主郭は、図の下寄りにあったようである。
なぜならそこの壁が一番高い。
しかし、土取り?で肝心の場所が、完全に消失している。
残っていれば、非常に見学しやすい城であったに違いない。
周囲には一部だが、水堀も残る。

第2回 2009/11/30 リベンジ

今日は午後のみニッチな時間ができたため、再び真岡の八木岡城へ。
前回は方位磁石を忘れ、しかも余りの寒さに適当な図面を書いてしまった。
今回は、そのリベンジである。
日が短くなり、夕暮れまでのちょっとの時間であったが、図面を書き上げたので紹介したい


◆原図


◆彩色図







当城で1番虎口形態がハッキリしている場所である。

矢倉台の周りを回らせるルートとなっていたと思われる。








虎口周りの堀(2の堀)は浅くて、壁もハッキリしない。

しかし最外郭の堀(3の堀)は、途中で途絶えているものの、はっきりしている。











当城では主郭周りの堀が最も深い。微妙な横矢が掛かるのも特徴的だ。
2の堀と深さを比べてみると明らかだろう。







主郭に続く2の郭には5輪塔群が見られる。

中世の匂いが感じられる場所である。

【まとめ】


比較的遺構が良好に残り、整備が行き届いて、とても見やすい城である。
かつては五行川を望む築城形態が想像できる。

しかしながら、どうしてこのような残存状態になってしまったのだろう。
主郭は完全にえぐりとられてしまっている。

ブーメラン状に残る遺構からは、
東を流れる五行川に大水で削られたか、土取りで剥ぎ取られたとしか思えない。
古写真も探してみたが、既になくなっているものばかりだ。


いずれにしても、見学にはもってこいの城である。









桜町陣屋sk)位置(マピオンへのリンク)

 桜町陣屋 毎度おなじみの人の陣屋 2011/06/12

copyright (c). masaki.2011 コンパスも何も無い状態で作成した図なので、多少ズレが生じているかもしれません
【解説】

”栃木県の
中世城郭”で紹介するには、少々心苦しいところがある。
しかし、何よりも外枡形門を有する城郭的要素を持つ事とと、
”二宮金次郎”であまりにも有名な事+国指定史跡である事も加わり、この場で紹介する事にした。
ただ城としての位置づけは(括弧)付きとする。


 まず、陣屋の入り口である。























  陣屋の正面玄関は、堂々たる外枡形門













 この土塁の切れ目は、後世の改変かもしれない。→                   
  






 なるほど、立派な門構えである。
















           陣屋の見取り図である





 陣屋内部である。
 建物は、基本、当時の物である。
 


   




     



 陣屋の周囲には土塁が回る。
 西面の土塁には、水堀(用水路)が伴っている。

 




             桜町陣屋横に鎮座する、二宮神社。




 そもそも江戸時代の初め、
 宇津氏によってこの陣屋は構えられた。
 宇津氏といえば、”宇津救命丸”であり、
 高根沢町にも、その陣屋がある。

 時代が下って、この周辺は荒廃の一途をたどっていた。

 そこに現れたのが二宮金次郎である。

 彼の印象と言えば、とにかく勤勉な事。

 ところが資料館によれば、
 仕事をした者に対しては、惜しげもなく報酬を与え、
 村を活性化させた数々の逸話がある。


 そんな激動の一帯であったが、
 今は、ひっそりと市民の憩いの場となっている。

       (完)








長沼(古)城sk位置(マピオンへのリンク)

ひっそりと藪の中に・・・       2014/03/15
 

 真岡市(旧二宮町)宗光寺に、この城は現存する。


 




 寺の本堂裏手(北側)を覗かせていただくと・・・・











                   
堀跡を発見。

                  
 早速調査開始だ!    

         




 
【解説】
 




『長沼』といえば、
すぐ思いつくのが福島県 会津田島町の鴫山城、
日光市鶴が渕城の長沼氏である。
実は、当城と思いっきり関係があった。

当城の城主は長沼氏である。

当地の一大勢力である小山氏から、
長沼氏は分家していった。
長沼氏は一部は福島に行き、
はたまた皆川氏の系統に分かれていったと言う。
そして、当地長沼を治めていた。


電車も車もない時代に、
人の流れというものに改めて感慨深くなる。






























さて、話を長沼城に戻そう。

実は長沼城というのは、
私の訪れた宗光寺の北にあったという。
その遺構は壊滅的ということだ。
管理人の撮った写真の遺構は、
長沼城の『
古城』に当たり、
それゆえ居館形式をとっていたと言う。

   













    長沼(古)城の堀には、伐採した竹が投げ込んである。
    特に寺の北の遺構は、放置され感が満載であるが、その旧状を探ってみよう。






 写真は、寺北側の堀内部。


 ご覧のように、右側の壁の方が高い。
 寺の敷地は左側である。

 つまり、ここだけを見ると
 城の主要部の方向は、
 寺の外にあったことになる。

 


 






















 

こちらもコーナー部。
左が境内の外。

右側が寺の敷地。

しかし、
どの資料も、寺の境内が城の主要部と書いてある。

    
う~ん。
       どういうことかな?

















 

 先ほどのコーナー部の堀は、
 南に来るほど薄くなる。

 明らかに、埋められている。

 近代の改変かもしれないが、
 途中でクランクした跡も残る。



 








 



 上記の堀は一度消え、
 再び寺の敷地南側で復活。


 このあたりは草刈が綺麗に施され、
 見学しやすい。



















 上写真と同場所をアングルを変えて。


 左手が境内。
 右手が境内の外。


 ここでは、境内側の方が若干高い。

 



























 長沼(古)城の、
 最南東コーナー部を見る。

 
























 パノラマにて、上記エリアを撮影。
 ゆがんで見えるが、堀は直角である。

   









さて、長沼(古)城の縄張りであるが、なんとも復元し難い。

おそらく城は、宗光寺の周辺に堀を巡らせていたと思われる。
しかし、何しろ、東側が完全に破壊されているため、はっきりとしない。
東側には、現在湿地帯があり、その周りにも微妙な遺構が残る。
ここまで含めると、城域はさらに拡大してしまう。

北側の堀はさらに、不思議である。
境内より外側の方が、土塁が高い。
これは、城の中枢が境内外(北側)にあったことを示す。
境内側にあった土塁を、近代に削り取ってしまったとも考えられるが、
なんとも言えないのである。

また、現在残っている堀も、分枝していた可能性が見て取れる。

このことから、長沼(古)城の縄張りが、
”真四角に堀と土塁で囲まれていた”と明言することは辞めておこうと思う。
 

              









                    (以上コンプリート)
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