2019
那須町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
伊王野城(部分)sk | 芦野城 | 『杉渡土要害』? | 黒羽城(部分)sk |
第1回 伊王野城sk 2006/12/17 |
◆伊王野山麓居館部(上部が北) |
【解説】 2006年を締め括る、12月の例会の城。 また、中途半端な城を作ってしまった。。。。。。理由は日記で。 とにかく、作りが荒いが規模の大きな城である。 |
第2回 伊王野城sk 2011/12/18 |
【解説】 中城研の例会が伊王野城で行われた。 これは、2006年の例会のリベンジ。 あれから5年も経ってしまったのか・・・・ さて、今回は主郭より北の遺構を描こうと当初から決めていた。 当然、5年前とあわせて2日じゃ書き切れないことはわかっていたから。。。 主郭より北の堀切は、これぞ薬研堀!という勢いの、切り立ったものである。 歩行すら危ぶまれる。 (以下 編集中です、すみません) |
◆第1回 |
【調査にあたって】 芦野城は近世城郭である。 本ホームページの『中世城郭』という題名にふさわしくない城であるのだろうが、 なんとも『中世城郭っぽい』のが芦野城なのである。 芦野氏は那須氏の一族であるが、没落することなく、芦野一帯を統治しながら明治維新まで続くのである。 |
【解説】 図を見てほしい。 未調査部分が多いのであるが、彩色してみた。 いつもの通り、黄色が土塁、緑が堀、茶色系が傾斜面である 芦野城の主要部は、なかなか面白い構成となっているいる。 居館部分と、山城部分が隣り合わせ。 つまり所謂『平山城』が一つの山の山頂に集結しているイメージだ。 図の広い平場には近世の芦野陣屋があった場 所である. しかし中世からも、基本的にこのような縄張 形式であったと考えたい。 ◆芦野陣屋跡(図中のおおきな平場) ◆弱点 ◆芦野城現地看板 現地に赴くと、芦野城の縄張看板が立っている。 私のような目的で来ているものにとっては、 大変うれしいものである。 早速、今回の調査の参考にさせていただくことにした。 お気づきの方もいられるだろうが、この城の最大の弱点は、 城の南方向.である。 右の看板で言うと、右端部分に当たる。 左手は芦野の町に向かう崖で、 上と下は山が下っていく傾斜地となる。 それに対し図の右手はさらに山が続き、 しかも標高を上げていくのである。 ⇒城の位置 看板には、そちらの方向の防御が描かれておらず、中途半端に終わっているように思える。 堀があるわけでもなく、どのように守っていたのだろう?? この疑問が、まず最初に湧いてきたのである。 情報によると、城の南側にはかつて林道が走っていたと言う。 今は、電力施設によって一部破壊されているものの、よく観察しながら状況を確認してみよう。 調査の結果、南端を守る遺構はやはり存在した。 上図の左手方向から言うと、長い縦堀Aがまず見つかり、山麓方向に延びている。 ここは、今回草が多く未調査だ。 しかし、かなりの長さで続いていることを確認した。 次に、芦野陣屋の”虎口”前は、堀が縦堀Aに続いていたと考えられる。 今は遺構が存在しないが、おそらく施設建設のため破壊されているのだろう。 さらに右に進むと、横堀Bが始まる。 土塁を伴った堀が、一度クランクし谷に落ちていく。 あぁ、これで終わりなのかな・・・ と思っていると、斜面に縦堀Cが見つかった。 何の気なしに登ってみると、頂部から横堀Dが現れ、 図右方向の尾根上を横矢をかけながら続いているではないか!。 つまり、 この城の南方向の弱点部分は、 長大な一本の堀のラインによって防御されていた事がわかったのである。 ◆4方に配置された堀 ◆①の堀 さて、以上を踏まえて芦野城を俯瞰してみると、 縄張の4つの端に、4つの堀を配置していることが分かる。 ④は図化できなかったが、 巨大な縦堀であり、山麓まで延びている。 4つの隅を万遍無く、 バランスをもって配慮された縄張りには感心させられる。 |
今回の調査前、季節も5月に入り、烏山城で虫にやられ、めげていた。 ただ、五月連休中になんとしても、もっと城が見たくて、 『そうだ!・・北に行けばまだ、虫も草もすくないのでは?』 と思い、芦野城を選んだ。 ところがギッチョん。 虫に刺されるは、変な草にかぶれるは・・・・ 今も私の両腕には、そのときの傷?かぶれ?痕がまだ消えない。 やはり、城見学は冬に限る。 芦野には『岩観音』という景勝地がある。 写真愛好家達の足が絶えない。 写真左手は桜の咲いている時期に息子と来たときのものである。 あいにくの雨であったが、この時期は写真愛好家達がたくさん訪れて来ていた。 きもちが良く分かる。 写真右手は、今回の芦野城調査の時に撮ったものである。 桜は散って葉桜であるが、代わりに芝桜が満開となっていた。 写真が絵になるように、芝桜や菜の花は地元の方たちが植えているものであろう。 左4月・右5月⇒ |
◆第2回 追加調査 |
【調査にあたって】 2008年11月。 管理人は第1回の芦野城の残部分を調査する機会を得た。 調査結果を浄書したものが上図である。。。 今回は第1回からの変化点と、今まで明らかになっていない新らたな遺構を紹介する。 |
【解説】 前回の残項目とだったのが、 縦堀Aの行方であった。 今回の調査で分かったことは、 この縦堀は緩い尾根上に構築されており、 途中一部2重になりながら、 最後は堀切となり尾根を分断するのだ。 縦堀Aに沿う壁は高くしっかりしている。 その壁の上には曲輪が展開されているものの、2の丸側の加工は非常に甘いのが目立つ。 さて縦堀Aの先にはもう一本堀切があるが、一部埋もれているのかハッキリしない。 目を転じよう。 図面下方の2の丸の角には、枡形虎口が存在する。 また、この虎口の向こう側には、当城最大の縦堀Eが存在する。 当城で近世城郭の新しさを感じる部分である。 ①写真 ②写真 さて、改めて芦野城を俯瞰してみると、 芦野城は弱点である背後の山続き(図面上方)を 完全に堀で分断し、外部と遮断している。 城前面(図面下方)に対しては、 もともとの山の傾斜を利用して壁としているが、 両サイドの緩傾斜となる尾根はを縦堀で潰し 敵兵の侵入を防御する構造となっている。 城下部分まで完全に見れては居ないが、 いままで不鮮明だった芦野城主要部は, これでほぼ明らかになった考えていいだろう。 ◆ 芦野城航空写真 国土変遷アーカイブより(北←) (芦野城完) |
◆第1回からの図面変化点◆ ちなみに第1回からの変化点を記しておく。 |
◆芦野氏の陣屋門 正面から ◆立派な素材を使っている ◆芦野氏居館を芦野城からのぞむ |
◆芦野城の紅葉 芦野城は紅葉の美しい城である。 これは2の丸、北側の虎口付近であるが、 赤、黄色の落ち葉の絨毯が敷き詰められていた。 (撮影 2008,11,19) |
【解説】 2009年1月4日。 散々、青木要害で "スカ" を食らった私は、元黒磯市の杉渡土要害年を目指した。 下野新聞社『那須の戦国時代』 では”富士見峠の最高所西側に土塁、空堀が残る”という。 ところが、期待を胸に調査してみたが、何も無い。 見事なまでに何も無いのである。 ひろい平地が広がるのみである。 当地は荒れ果てているものの、かつて分譲地であったようで、土地所有者の看板が林立する。 この分譲地の枯葉に覆われた通路を、空堀誤認したか? だとしたら、大きな勘違いである。 とにかく、杉渡土要害はどこにあるかはわからない。 ◆富士見峠付近 ◆国土地理院『黒磯』から ×印が今回調査場所。遺構は未確認である。 |
◆主郭大枡形門 |
【解説】 青木要害訪城をS氏と待ち合わせ。 待ち合わせ場所は、黒羽城の駐車場であった。 わずかな待ち合わせの間、黒羽城の主郭の枡形門を描く。 すごい。 流石、近世城郭。 土塁には石垣も見られる。 表土を剥げば、結構この城は石垣が多用されている城なのかもしれない。 |