2019
塩谷町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
玉生城 | 船生城 | 泉城 | 大宮城 | 風見城? |
『大久保城』 | 後山城? |
copyright.2007 masaki |
【解説】 主郭は神社の建立で破壊されているが、それ以外はすこぶる残存状況は良い。 小さな枡形門や、横矢を備えた堀が存在し、発想はかなり新しい城である。 |
copyright.2007 masaki |
【解説】 主郭への入り口は、玉生城と酷似した枡形門である。 同時代に創設されたと考える。 |
copyright.2005 masaki |
【解説】 主郭および、主郭西の曲輪は未整形である。 ほとんど傾斜面で、家屋の建設は無理であろう。 居住部分は、鉄塔の立つ最東端の曲輪であろう。 堀の回し方はテクニカルで、見張りを主眼とした陣城的なイメージがする。 |
copyright.2005 masaki |
【解説】 大規模な城である。 横矢や、西には未発達な馬出しが存在する。 堀も深く、土木量は相当なもので、塩谷地区統治の拠点と考えられる。 |
第1回 2000/10/20 |
copyright.2005 masaki |
【解説】 日本城郭体系などでは、東護神社の鎮座する当地を城跡とするが、 現況を見ると、城としてよいものか、かなり怪しい。 一応、図化はしたものの???である・・・ |
第2回 風見城推定地?? 2016/02/06 |
【解説】 第1回目に調査したのが、いまから16年前。 時を経て、再びこの地を訪れることになった。 きっかけは、当ホームページのお客様のしぼれさん。 第1回で紹介した風見城と言われている明神山(東護神社)の北北西約200m。 山の中腹に、怪しい遺構があるという。 そもそも風見城というのは、”宇都宮興廃記”に 「風見氏」 の名が見られる所から、その存在が指摘されたようだ。 しかし、この記録は江戸期に作られたもの。 ちょっと素性が怪しい。 ところが、中世に書かれ、信頼性が一目置かれる ”今宮祭祀録” にも存在が記載されているようだ。 つまりは、このあたりに確かに風見氏と名乗る者がいたのだ。 当然、城があったことは否定できない。 前回の調査で訪れた明神山(東護神社)は、城かどうか怪しかった。 はっきり言って、どう見ても城跡とは思えなかった。 しかし、城のバイブル 「日本城郭大系」 の記述に従い、縄張り図まで書いたのが、第一回の掲載であった。 copyright masaki 2016 「そうかぁ、1回目から16年も時が経ったあのかぁ・・・・・・・・・・・・・」 管理人は、1998年に埼玉から栃木に赴任してきた。 おもえば、赴任直後は仕事と子育てで、城跡見学に時間を割く余裕がなかった。 その中で、やっと時間をもらって、風見城を見学しに来た記憶がある。 ・・・あぁ、感慨にふけってしまう。 さて、連日の降雪で残雪の残る中、山に出かけた。 投稿文と写真からは、本当にこんなところに城があるのだろうか??と思っていた。 そのワケは、情報でもらった立地条件だ。 地図を見ればわかると思うが、余りにも中途半端な位置。 ダラ~ンとした山の中腹だ。. 非常になだらかな斜面上に、目的地はあるという。 ”___きっと、神社かなんかの跡だろ___” 廃止されたコミュニティセンターの前に車を留めて、山に入る。 目的地は、このセンターの裏山だ。 センターから回り込み、南に向け山を登る。 ちょっと登るだけで、早速、綺麗な削平地に出た。 削平地を良く観察すると、中央が若干凹んでいる____ 「・・・・・・・。 これ、城かも・・・」 これが管理人のファーストインプレッション。 素直にその時、そう思った。 というのも、山の斜面はダラダラなのに、この削平地の直上の切岸は、とてもしっかりしている。 2m~3mはあろうか。 人工物であるのは一目瞭然。 もし神社だったら、山の斜面に平坦地は造成しても、こんなに切岸はしっかり作らないだろう。 切岸を上がり、上段に登る。 ここが主郭のようだ。 そこから、さらに30mほど南に歩く。 すると、1mほどの高さの土塁に出くわす。 ◆写真手前が土塁。 堀を隔てて、私のリュックが見える 土塁の先は、カクンと落ちて堀切になる。 堀は、深いところでは2mほどあろうか。 堀切を中心にパノラマ写真を撮った。 こう見ると、やっぱり城跡に見えてくる。 写真左側に切岸を回り込んだところには、_______ ______虎口様の凹みがあった。 上の虎口状の遺構の反対側にも、虎口遺構がある。 こちらには微妙に横矢が掛かっている。 総合的に見て、当地が城である可能性は高そうである。 ただ、ここが風見城かと言われると、ちょっと・・・という感が残る。 私は確認できていないが、東護神社の縁起には、 「社の西に要害あり、天文年間風見四朗左衛門尉の所領地にて旧址あり」 とあるという。 よく考えれば、この怪しい遺構の場所も、東護神社の西方である。 よって、縁起の ”要害” とは、当地を指している可能性もある。 また、当遺構の北方の山、”後山”も、城郭関連地名であることから、城である公算が高い。 (管理人ホームページ 塩谷町 後山 参照) その構造は、単郭で堀切一本。 堀切に面した土塁。 この風見城推定地の構造そのものである。 規模もそこそこ一致する。 大宮城の監視として、向かい合う山同士に、同パターンで城を築いたのだろか? さて、風見氏は宇都宮家臣であることが知られている。 近隣の大宮城は、戦国期、宇都宮氏が再興した城であり、その規模から、この一帯を領していた事は間違いない。 よって風見城があるとすれば、”後山”と並んで、大宮城と連携していたと考える。 当然狼煙や光通信などの連絡や、相互の状況を確認する為に、お互いの城の姿が見える選地をするはずだ。 では、この地は、大宮城から見えるのだろうか? 当城は東護神社に比べ、ちょっと山に入りすぎたところにあるからだ。 調査の帰りしな、大宮城周辺の田園地帯を通った。 ふと、調査地の方を振り返ってみると・・・・・・ この山の間隙をぬって、当遺構がみえるのである。 ___というところからも、ここが城跡の可能性は高まったと言えようか。。。。 あと、もう一つ。 風見城が、明神山(東護神社)南側の可能性もあるということで、 現地を訪れた。 行ってみると、後山/風見/大宮城の立地する平地に対し、 こちら側は河岸段丘があって、一段落ちている。 よって、ここからは、大宮城方面は全く見えない。 また、現在は鬼怒川の堤防があり、田園風景も広がるのであろうが、 河岸段丘が証明するように、往時は鬼怒川の氾濫原とも思われる。 地の利から見て、当地に城が築かれた可能性は低いと考えた。 さらに、もう一つ。 今回の調査で、周辺の山も、もう一度歩いてみた。 推定地を除き、左図のログ上には、城郭遺構が無いことを確認している。 ◆GPSアプリ やまやま より いずれにしても、風見城・・・・なんとなく消化不良である。 (疑問は続く・・・) |
『大久保城』(高野城) 電子国土・位置のリンク→推定地。本当にココだったかはわかりません。
【解説】 大久保城は塩谷町字大久保西郭にあった。 風見城の東3kmにあにあたる。 大正6年の水田化に伴い全壊した。 左図は塩谷町史に載る明治9年の実測図である。 基底部7.5~9m 天面 3~4.5mの大きな土塁。 幅 12~15mの空堀。 図を見ても明らかのように、大きな横矢が掛かっていた。 宇都宮家臣・大久保氏の居城であった。 図は黄緑が土塁。濃い茶が空堀。水色は松川である。 他図同様、上方が北である |
後山は城跡か?? 2013/01/29 2012~13冬第11弾 |
当ホームページのお客様、しぼれさんの情報で、塩谷町の”後山”に堀切がある???ということで、登ってきた。 場所は、塩谷町大宮城の西方、標高320mの山である。 車は、山の下の路肩に停車。 目指す山頂には、送電線の鉄塔があるということだ。 向こうに見えるは、泉城。 大宮城もよく見える。 さて、城へのアプローチであるが、送電線の作業道があるということだった。 探してみると、田んぼの向こう側に道が見える。 下の写真、鉄塔越しに雪のラインが見えているが、その左端から作業道が伸びている。 作業道は明るく、とても登りやすい。 途中、いくつかの削平地があるが、送電工事関係と判断し無視した。 しばらくすると、”後山”山頂にたどり着く。 周りを見渡せば、なるほど、大きな鉄塔が建っている。 見通しは極めて悪い。 周囲を歩き回り、図面にしたのが以下である。 結果として、非常に怪しい城(?)であることがわかった。 |
【解説】 では、彩色図を使って、城(?)の遺構を観察してみよう。 山頂には一等三角点がある。 その標柱越しに見えるのは、堀切のようである。 標柱向こうの壁が高く、城であれば、あちら側が主郭となる。 堀切は、さほど深くない。 堀の両袖は、縦堀になっていたかは不明である。 破壊が激しくつかめない。 堀切を渡り、対岸に行けば、そこは神社となっている。 神社の鳥居は東京電力が奉納しており、 送電線の鉄塔工事の間だけ、 神社がどこかに移設されていたのだろうか? と、いうことは、 この堀切は、鉄塔建設時の工事の造作でできたものなのか? 神社の周りをウロウロする。 すると、神社周辺は自然地形なのに、少し下った所が切岸状になっている事に気がついた。 下の写真は、神社南の切岸で、一部堀状になっている。 ◆堀状にも見える切岸 切岸は、神社の東面・南面を包んでいる。 また、切岸の下には削平地がある。 堀の跡か?? 主郭は自然地形であるが、北、東、南には防御の意識が感じられる。 切岸下の帯状の曲輪が堀の名残だとすれば、後山は結構、立派な城になる。 前述したが、後山の周辺には、大宮城、泉城、風見城が存在する。 大宮城は、戦国末期に宇都宮氏に大きく改修されている技巧的な城だ。 ただ、西にある後山からは、内部が丸見え状態であり、 この山の存在が、前から気になっていた。 泉城も歴史ははっきりしていないが、大宮城の関連施設とすると、 後山と近すぎる感があり、小さなエリアに城が集中していることになる。 また、風見城は、比定されている場所に、まったく遺構が確認できない。 後山の方が、城と言うにはまだマシである。 では、後山が風見城なのか・・・? 、 何しろ、ここには大きな送電線の鉄塔の下。 この鉄塔工事は非常に大規模なものであったろう。 工事の関係で、このような堀、削平地ができてしまうのでは?? それを、鉄塔工事跡を城と見間違えているのでなかろうか? 早速、以前電柱の設計部門であった友人に電話をしてみた。 しかし、専門外で「よくわからない」とのこと。 仕方なく、ホームページを当たると、以下のようなページにぶつかった。 ◆一般社団法人 送電線建設技術研究会ホームページより◆ つまり、山の送電鉄塔建設には、ロープウェイやモノレールを設置し、右写真のような資材スペースを確保する。 この時に、上記の様な切岸ができてしまうのではなかろうか??? しかし、最近の工事はもともとの山容をなるべく改変しないように努力するとも書かれている。 東電の方、ちょっと教えて欲しい! あぁ、城のようで、城かどうか判断がつかないなぁ、?ダメかなl・・・・・・・・・・・・・ 後山(うしろやま) → うぉしろやま → ぅおしろやま → お城山 後山。消化不良のままコンプリート (※ 後日談・追記 私の認識不足だった事がわかりました。 ”後山”は完全、城郭関連地名で、城である事例がいくつかあるようです) |