2019
栃木市1 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
大平山城 第1回(写真のみ) | 大平山城 第2回(写真のみ) |
光明寺城sk | 藤沢城 | 不魔城主要部sk |
第1回 謙信平の紅葉 2012/11/10 |
大平山城の中腹にある謙信平は、かつて上杉謙信が関東平野を望んだ場所という。 謙信は武田信玄に備えるために、永禄12年,、北条氏と手を結ぶが(越相同盟)、この時に大平山城に来たのだろうか? でも、解説看板と年号が違うな。 まぁ、それはさておき・・・・・・・ なるほど、関東平野が一望できる。 平野を望む謙信の気持ちは 如何様なものであったのか? 肉眼でも見えるが、東京スカイツリー、新宿副都心も見える。 しかし、とにかく紅葉が見事! しばし、撮影に興じる。 謙信平から少し登れば大平山神社。 神社までの道沿いではヒガラが人なつこく近づいてくる。 太平山神社裏山には、大平山城の本郭があるというが、今回はパス。 この山は視点を変えて、 栃木市方面も望むことができる。 結局、大平山からは四方八方展望が可能。 確かに、要害の地だ。 |
第2回 あれ?これ堀切?? 2015/08/24 |
第1回から早3年。 管理人はやっと大平山城に行くことができた。 しかも、夏に。。。。。 実は、夏は余りにもやることがなくて、 さて、管理人は2014年に栃木市の城館調査を委託され、報告書の作成をおこなった。 その過程で、大平山城を調査された方から、この城の遺構がハッキリしていないという情報ももらっていた。 管理人が、なかなかこの城に足が向かなかった理由は、そこにある。 2015年8月24日。 管理人は大平山城へ向かった。 AM7:00。 駐車場は、大中寺。 誰もいない・・・、当たり前か。 ここの山門は、皆川城のものという伝承がある。 大中寺から、ハイキングコースをたどる。 30分ほど登れば、大平山神社の鳥居にたどり着く。 大平山城の遺構と考えられる下の堀切?は、上写真鳥居の左手の尾根上にある。 尾根上から撮影 上の写真正面の壁が、左写真。 土塁状の高まりもあり、高さは2mほど。 反対側の壁高さは、1m無い位。 堀切?自体は、かなり埋まっているのか、 両袖は縦堀になっていない。 通常、 尾根の進行方向に対し垂直に堀状になる事は、 自然現象ではありえない。 つまり、これは人工物と考える。 ただし写真手前方向で、 道が堀底まで繋がっているので、 切通しの可能性も否めない。 堀切なのか?切通しなのか? 実に判断に苦しむところだ。 ここからしばらくはダラダラした尾根と、いくつかの平坦地形が続く。 なにも、加工した感も無く、自然地形だろう。 さて、先ほどの堀切状の遺構から、約400m。 富士浅間神社に到着した。 ここには、2段の削平地がある。 切岸もしっかりしている。 ただし、曲輪と呼べるかどうかは、微妙だ。 神社を作るために平地にしたと言われたら、 身も蓋もない。 ただ、地元の看板にはしっかり 神様、本当に、これは城の遺構なのでしょうか? 教えていただきたい。 管理人は、ここからさらに西に稜線を進む。 で、ここからが、本題である。 富士浅間神社から、400mほど西に進んだであろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 冒頭で説明した物が堀切であるならば・・・ ここも堀切でイイんじゃない??? 位置は以下である。 左図はYAMAPの現地GPSデータで、オレンジ色の●が、今回確認の堀?の位置である。 右図は地理院地形図に、位置関係を落としたもので、赤線が、レポート前段で説明した堀切状の遺構。 青線が、今回確認した堀? これを見ると、大平山の頂上、富士浅間神社を中心に、東西で対象に堀?が存在する事が分かる。 と、なると怪しくなってきたのが、神社から北に延びる尾根。 しかし、残念ながら、管理人はこの尾根を歩いていない。(この辺も怪しい?のエリア) 今後も含め、確認が必要になってくると思う。 ちなみに、発見した堀切横はハイキングコースや、電波塔の整備道になっている。 このためかどうかは分からないが、両袖の縦堀は確認できなかった。 果たして 大平山は、 本当に城と言って 良いのだろうか? (疑問は続く) |
copyright masaki 2006 |
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【解説】 光明寺境内に城跡は残る。 細井駿河守光明の築城という。 寺の方にお話を伺うことができた。 主郭北の堀は、水が湧き、深い水堀となっていた。 家中小学校の子供達が、飛び込みできるほどの深さで、 水も澄み、魚も多数住んでいたという。 思川の護岸工事により、水位が下がり埋め立てたという。 また、家中小の校庭西端に、せせらぎのある公園が設けられているが、 ここもかつての堀の跡という。 こうなると、かなりの規模の平城で会ったことが伺える。 現地をくまなく踏査できなかったが、 まだ遺構が部分部分残っているかもしれない。 |
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【写真】 写真番号は縄張り図中の番号と一致しています | |
①光明寺入り口 堀と、おそらく土橋が消失している。 寺正面の参道に沿っても堀があり、水が流れていたそうだ。 |
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境内には大きなイチョウが・・・ | |
②家中小に沿う西側の堀 | |
③主郭北の堀 | |
④櫓台を望む かつて、この道路は堀であり、満面の水を湛えていたという |
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⑤外側の曲輪の壁 空堀は消失 |
copyright.2005 masaki |
【解説】 この城址は小曾戸氏の城であると考えられる。 小曾戸氏と後北条は、相互のやり取りの文書が残っており、 本城の規則的な縄張りには、後北条氏の手が加えられている可能性もある。 |
第1回 1997年 |
反対側の尾根にも遺構が・・・・ copyright.2005 masaki |
【解説】 主郭東面の登城路から、最後は大きな縦堀を木橋を渡らせる。 この時、主郭から、上面攻撃を可能にしている構造は、憎い!(上図) 不魔城南対岸の尾根上にも、城郭遺構がある。(下図) ) |
第2回 2008年 |
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城を見はじめて、早35年以上。 当城には1997年に一度訪れている。(それが第1回) 2008年12月の中城研例会で、当城を再訪問することになり、 10年以上たった今、改めて図面の書き直しを行う事となった。 前の図面と今回の図面。 全く違うものとなった。 見落としや、曲輪の輪郭の差。 解釈の差。 図面の迫力。 どれをとっても今のほうが素晴らしい(・・・と思う) 少なくとも描写の差は歴然。 やはり、縄張図は事実に基づいた写生画である。 作品が、年を重ねるごとにうまくなる。 それに近しいものがあるのでは。。。。 私の図面書きも、まだまだだ。 |
【解説1】 不魔城の入り口には、このような道標が立つ。 しかし駐車場は無い。 そこで我々は、近くの空き地に 車を置かせていただくことになる。 もちろん声掛けし、お断りを入れる。 さて、登城路は狭く、車の進入は不可能。 写真電信柱下の道を歩く。 写真右手の小高い部分が城跡である。 道標にしたがって歩いていくと、 最西端の曲輪にたどり着く。 城址碑と秋葉神社が鎮座する。 神社といっても、祠程度の小さなものだ。 曲輪の壁は、見事なまでにしっかりしている。 写真は北の尾根続きの曲輪から、 主郭を望んだところ。 この城の見どころは何と言っても,上の写真。 |
◆不魔城を彩色。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【解説2】 まず、当城の最大の見所は、このルートにある。 それを、紫色のラインで示した。 敵兵は縦堀で挟まれた、閉塞した空間を登らされる。 これは登城する敵を、山の斜面に横移動させないようするもの。 そして道を登りつめた最後は尻つぼみとし、 主郭からの攻撃で一網打尽とする構造である。 たしか山梨の白山城にも似た構造があった。 さて、登り詰めて尻つぼみとなったその先は、 角の形をした馬出しである。 この馬出しには、対岸に木橋が掛かる。 この橋は、いつでも壊せる構造となっていた。 橋を渡り、さらに進むと主郭への登城口だ。 10年前は、この道を見落としていた。 今回の発見だ。 上がった先の主郭先端は、枡形虎口となっていたようだ。 これも、新発見。 写真はその橋の掛かっている部分のところ。 (以上、不摩城) |