2019



 

大田原市2022  

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



福原西城(千手院裏城) 福原城(福原要害城)

福原西城(千手院裏山城)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

縄張り確認!  お隣りの城  2018/02/09 


 【プロローグ】

 「遺跡ウォーカーβ」 という遺跡専門のネット情報がある。
 以前からこの存在は知っていたが、お客様の ”しぼれさん” から、
 福原城の横に、
 『千手院裏城跡』 の登録があり、どうもそこが、城っぽいというのである・・・・・・・・・。。

 なお、私の手元の資料では、ここを城跡だと示す資料は皆無である。
                     ◆WEB電子国土地理より



  



    じゃぁ、行ってみるしかないじゃん!



 

 いただいた情報を元に駐車。
 道の傍らであるので、車をぶつけられないか?とちょっと心配になるが、
 ここ千勝神社の先に駐めさせて頂く。



 



  


 途中、地元の方に入山のお断りをしたが、特に城に対する情報は得られない。
 仕方がないので、ネット情報の通り、山に入る。




 情報だと、この給水施設?を越えると、城跡だということだったが・・・・

















                 ・・・
果たしてそこは、正真正銘の城跡だったのである!!

 


  
◆縄張り図

         


                                  
なんか、凄い!



 「遺跡ウォーカーβ」さんの情報では、この山の北麓に”千手院”という廃寺があり、その背後の山であることから「千手院裏山城」となっているようである。
 
 本HPでは、福原城のすぐ西隣りの山なので、イメージがつかみやすい 
【福原西城】 と呼称させて頂こう。



 

 【解説】


 
先ほどの給水施設から30mほど下ると、”堀切①”である。
この壁を5m~6mほど登れば、”Ⅰ郭”である。
ここから振り返って堀切①方面を見ても、藪が酷くて写真にならない。

  
◆Ⅰ郭より、堀切①を望むが、よくわからない。







ここは、矢倉台だったようで、切岸は緩いものの、幅広の土塁となっている。
土塁は、薄い部分も含め、Ⅰ郭を3/4周している。

 

◆Ⅰ郭土塁






◆南虎口、西方向から
 

 Ⅰ郭の南縁をたどると、”南虎口” に突き当たる。
 単純な平入の虎口のようであるが、このあたりがⅠ郭でもっとも切岸が高い。
 


       ◆南虎口を東から
     




 ◆北虎口、南方向から

Ⅰ郭には、南虎口と対称に北虎口もある。
南虎口同様、平入の虎口である。
虎口を城外に出ると、崩れのため、はっきりしないが、
ルートは北西の帯状の曲輪に繋がっていたようである。

   



  

 Ⅰ郭はなにしろ藪が酷くて絵にならないので、写真紹介はここまでとする。



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 さて、Ⅰ郭の調査を終え、”堀切②”を渡り、東に向かう。
 自然地形の緩やかな斜面が続き、「あー、Ⅰ郭で終わりだなぁ~」 と思っていると、突然 ”堀切③” が現れる!!。

               ◆堀切③を西から撮影。対岸の方が高い。
          





 堀切③内部の写真。
 当城で最も深く、まともな堀切だ。
 

◆南に下る堀切②








堀切③の下は、”道”になっている。
よく観察すると、この道はぐるりとⅠ郭、Ⅱ郭の南面下を通っている。
道の機能もあるが、南側斜面全体を守る曲輪として使われていた可能性が高い。


◆道から堀切③を見上げる













堀切③を超えると、”Ⅱ郭”である。


◆Ⅱ郭の土塁上から堀切③を見下す




◆Ⅱ郭内から見た土塁。非常に高い。

この堀切に沿った土塁は、Ⅱ郭側は非常に高いものとわかる。
裕に3m以上はあろうか。
  

Ⅱ郭は非常にコンパクトな曲輪であるが、その連絡虎口がわからなかった。
東端の切岸が最も低くなった部分から、出入りしていたのだろう。




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 この城は、2つの郭でできている。
 見方によっては、2つの城とも取れるが、距離があまりに近すぎる。
 城を守る方向も明らかで、東と南方向を警戒している。
 特に、南方向の警戒は厳重で、Ⅰ郭 Ⅱ郭の土塁の配置を見ても明らかである。

 すぐ東の山は、
福原城(下に記述) である。
 この城も、福原西城と土木量は大きく違うものの、南方面からの敵を、異常に警戒している。
 隣どおしの配置、守るべき方向の一致。
 このことから、両城は別々の時期に築城されたのではなく、同時期に存在し、相互補完していたと、管理人は考えたい。

                                  
 
 【お知らせ 2018/03/28】

 おそらくこれが、栃木県からの最後の更新となります。
 今まで14年間、みなさん、ありがとうございました。


           

                              
 (以上、終わりです。皆様ごきげんよう!)
   






福原城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 
copyright.2005 masaki
【解説】
上那須の本拠、福原城である。
地元では”城山”と呼ばれている。
麓の福原館に対し、福原要害と紹介しているHPも多い。
最近の大河ドラマ”義経”ブームで、訪れる人も少なくないそうだ。

この城の土木量には、驚かされる。
山城部の規模自体はさほど大きなものでない。
しかし、主郭の高さは、最高で有に10m以上はあろうか。
上那須氏は、下那須氏に淘汰(自滅?)される運命にあるのだが、
その緊張感が伝わってくるような縄張りである。

        『福原城土塁・堀』
麓の”福原館”と呼ばれる部分とセットと考えられるが、
城としての機能メインはこちらになろう。
福原館周辺付近はは、居館部分を含む城下町という位置付けとなろうか。

矢板市の沢村城,佐久山、泉城も同等に、土木量のすごい城である。
箒川沿いの城はすごい。

◆全景 ◆裏手から望む本ホームページ表紙の写真
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