2019
宇都宮市
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
徳次郎城 | 井釜山sk |
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【解説】 1985年の調査結果である。 少々、難あり。 残存は良好である。 図の主郭外側の曲輪の上部から2番目、左から右に田川に向かって延びる空堀は、 道路として掘り下げられた可能性もある。 |
再訪2・徳次郎城 2011/10/08 |
◆まだ途中です。 |
【解説】 娘のサッカーの迎えまでに2時間30分ほどあったので、徳次郎城へ行ってみた。 前回来たのが、1985年であるから、なんと26年ぶりの再訪である。 まだ、秋も日が浅いが、草も大分落ち着いているようだ。 しかし、まだ蚊がいるぞ! 早速顔を刺され痒い、痒い! 午後2時。 意を決して、藪に突入!タイムリミットは午後4時30分。 描きだしたのはいいが、主郭の形が合わない、合わない。 今シーズン初めの茨城県の長者屋敷でもそうであったが、いきなりの四苦八苦。 徳次郎主郭は基本的に四角形のようであるが、微妙に頂点角度が90度ではない。 おまけにやたら広い。一辺100メートル以上。 ここで思わぬ時間を消費してしまう。 ◆主郭虎口(左) ◆内堀 ◆内堀(正面は田川) さあ、次は外郭だ。 わ!でかい! なんだこのでかさ! これまた合わない! 昔一度描いたのに、なんでこんなに合わないんかなぁ。 …とまぁ、線が納得行くまで、同じ所を行ったり来たり。 結局、全部書けずに時間切れ。 また、中途半端な城を作ってしまった。 ◆外堀 ◆外堀 家に帰って、1985年の図面をみてビックリ! パーツ等の見落としはないものの、曲輪の形が全然ダメ。 微妙な角度に悩まされ、つじつまをあわせたのか、とんでもない主郭の形になっている。 まあ当時は方位磁石も持たず、全て方向感覚だけで描いてたから、こんなもんかな。 俺も、ケツが青かった。 本来は、恥ずかしくて削除したい図面だが、自分への こんな図面を描いててはダメだ! ◆1985年 ◆2011年 作図途中 しかし、26年前に一度来たはずなのに、図面を描いた記憶がほとんどない。 ただ当時は、主郭と2の郭の堀から、直接田川に降りる事ができた。 その川の美しさに、ペンが止まった事だけは鮮明に覚えている。 あの頃はまだ東京に住んでいたから、その感動もひとしおだったのだろう。 まさか、あの頃は自分が栃木県民になろうとは、夢にも思っていなかったから・・・・・。 いま、その場所は田川に直接は降りられず、堤防ができている。 時の流れを感じずにはいられない。 ◆ソバ畑の向こうが徳次郎城 |
再訪3・微妙な角度を持つ徳次郎城 2012~3第8陣 2013/01/06 |
何しろ歩測が合わない。 これが、この城の攻略しづらい所。 理由は、曲輪の一つ一つが広大だからだ。 ちょっと辺の交わる角度がずれると、末端では大きく10歩、20歩と測定結果にズレが発生してしまう。 いくら、方位磁石を駆使しても、この微妙な角度は読みきれない。 そこで、今回、参考にさせてもらったのは、左の航空写真。 これに、そって微妙な縄張り図の角度変更を行い、 浄書していこう。 いつもの様に徳次郎城の入り口。 ”あっ!ちかん、すぐ110番”が目印だが、 なんとも気まづい。 (別に、私は痴漢じゃありません)
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【解説】 さて、この城は、近代の改変が多数見受けられるので、そのあたりから考えてみよう。 いろいろな解釈があるようだが、 二ノ郭のA・B郭と、その外側E郭は、完全に耕作されていた。 しかもE郭の堀?は幅が異常に狭く、 畑の根切り跡のような気がしてならない。 城の外郭として、他の資料で紹介されているF・G郭。 F東に段差と堀状の地形があるものの、城としてのつながりが見受けられない。 古墳がそのまま点在しているところも、”未加工”の裏付けと見た。 F,G間の溝も、耕作の跡となのではなかろうか 主郭の虎口であるが、東のものは明らかに、破壊跡。 理由は、1985年の筆者調査時には無かった。 西のものも、大きく破壊されている。 1985年調査時では、主郭に上がる細い坂道があったが、これも本来の物か疑問。 唯一、主郭の虎口と判断できるのは、南側の虎口。 ここなら横矢もかかり、ベストポジション。 また、同じ理由で、二ノ郭から外部にも下図の場所に橋が掛かっていたと考える Bの二の郭北の堀は、城の機能としては意味不明な部分。 築城者が、主郭に簡単にたどり着けるような通路を作るだろうか? 管理人は後世のものと考えている。 C,D郭の間仕切りは、往時の物と考えた。 理由はD内に土塁がしっかり残っているからだ。 このため、破壊をまぬがれていると見た。 浅い堀で仕切られていたようだが、C&D間の連絡はよくわからない。 上記の間仕切り方が当城のパターンだとしたら、 Aの両脇の溝も、往時の間仕切りの名残なのか? ただし、Aは前述したように畑になっていた履歴があるので、判断に苦しむ所。 ここでは、一応畑痕としておこう。 しかし、この城の堀は大きく、長い・・。 この堀の長さと、方向が、図面描きに大きく影響する。 写真の部分は箱堀状になっているが、ここから先に進むと、両側の壁が高くなり、堀内部も狭くなる また、この城の堀端を見ると、 最北部のものを除き、全て田川の河川敷に降りられるようになっている。 現在は堤防もできて、城の袂に水は満ちていないが、 かつては、直下に川が流れていたのではないだろうか。 つまり、田川の水運と結びつきが考えられる。 田川を下れば、宇都宮城である。・・・・① 一般的に、出典は勉強不足で知る由もないが、 当城は宇都宮氏配下・新田徳次郎昌言によって築かれたと言われる。 日光勢力の監視として築かれたというのが通説だ。 改めて城の縄張りをよく見ると、 日光方面である北方面には三重の堀が配置されている・・・②。 また、虎口と思われる2つの橋が、北からは見えないように 曲輪南に配置されている・・・③ 以上、縄張りの特徴①~③にても、 この城が北(日光勢力)を意識しているというのは、納得できる事実だ。 (徳次郎城コンプリート) |
第1回 宇都宮市・伊釜山って何処? 2013/05/25 |
情報があった。 インターネット含めて複数あったのだが、簡単にまとめるとこんな所か。 古賀志山の山麓に伊釜山という所がある。 ああ、ダメだ!!
地元の方にちゃんと話を聞こう! |
この後、読者からの伊釜山の場所に関する情報があり・・・・・・・・・・・・・ |
第3回 伊釜山縄張り図作成 2013/11/04 2013~2014シーズン第四弾 |
伊釜山は城である。 約半年前、こういう結論を出しておきながら、日暮れに訪れたこの城。 しかも、方位磁石まで落とし、まともな縄張り図が描けなかった。 本日は、そのリベンジである。 成果は以下。 やはり、間違いなく城跡である。 城跡入口はカーブミラーの向こう側。 しめ縄が張られているので、すぐわかる。 |
【解説】 北のしめ縄部から少し下ると、早速堀切①に至る。 山道が堀切①中央を貫いている。 古墳にも見えなくもないが、城でしょ!やっぱ。 堀切②の西側を見る。 縦堀状に綺麗に遺構が残る。 堀切②の東側を見る。 こちらは平面的な堀切となっている。 さらに進むと堀切③。 かなり浅いが間違いないだろう。 堀切③を進むと、主郭に至る。 主郭の加工は甘かったようで、 南に行くほどダラッとした感がある。 主郭のある山名は伊釜山。 しめ縄で祀られる場所に、 この山のシンボル=桜と橿の木があった。 堀切④ かなり浅くなってしまっているが、 間違いなく堀切だ。 所変わって、主郭を囲う曲輪だ。 これは西側の曲輪。 綺麗に主郭取り巻いている。 これは東側の曲輪。 画面の奥に行くほど、立ち上がっている。 さて、地元の研究では伊釜山には一定の歴史が伝えられているが、戦国時代にまでは及ばないようだ。 しかし、私には気になる事実がある。 以下の地図をご覧いただきたい。 伊釜山は多気山城、岩崎城の中間にあるのだ。 これは何を意味するのか・・・ そう、 伊釜山は多気山に宇都宮氏が移城してきた時に 後北条氏の攻撃に備える為、 整備されているのではなかろうか。 当地は古賀志山の中腹であり、立地的には決して要害ではない。 城の構造から急ごしらえの感が否めない伊釜山。 居住目的の城とは思えない。 私には、物見をかねた多気山の補佐のように見えるのだ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・結局、半年前無くした方位磁石は出てこなかった・・・・グッすん。 (伊釜山完了) |