2019



 

市貝町 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。


『田野辺城』


『田野辺城』(写真と文のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください


城であることは否定しないが、ちょっと苦しいかな 2017/05/03


ここは千本城の支城である。
城主はここに住みつき、田野辺氏を名乗るようになったそうだ。

現在の慈眼寺周辺が城域という。

さて、他のホームページや資料では寺の東、北、そして台地続きの北側にある堀が城の物とする。
しかし、土塁も堀も本当に往時からのものか心許ない。
周囲の改変が激し過ぎる。
よって、縄張り図も描く価値が無いと判断した。
当ホームページでは、遺構として紹介できないので、文章と写真にて書き留めることにする。

  

慈眼寺にはしっかりと ”田野辺城” の案内標識がある。

       





















 参道を上がっていくと、早速、城の土塁と言われる高まりが見えてくる。























 
 しかし、その高まりを登ってみると、
向こう側は左の写真のとおり。

 「畑を作るときに土を寄せた跡じゃないの?」

と言われたら、ひとたまりも無い。














 


台地上をさらに進むと、土塁のような高まりがあり___


















その背後はご覧の様に堀状にもなっている。
しかし、台地を断ち切っているわけでもなく、
これも、

 「近代の加工じゃない?」

と言われたら、ひとたまりもない。

その他、さらに北にも空堀といわれる跡があるのだが、
城とするにはパンチのないものである。
道の跡にも取れる。









 城域には間違いなく生粋の 『日本タンポポ』 が咲いていた。 
 花に口があるのなら、この城の旧状を伺ってみたい。

                    


                                         (田野辺城おわり)


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