2019
那珂川町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
石井城sk | 上郷龍崖城sk |
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なんじゃこれ?変な土塁 2016/5/5 PM1:00~PM3:00 公開 |
今日は、管理人のゴールデンウイーク最終日だ。 昨日の飲み疲れがあるものの、折角のいい天気。 重い腰を無理くり持ち上げ、さっそく出かけたのが、石井城(通称・石井館)である。 この一帯は、佐竹氏の家臣、石井氏が収めたといわれている。 近隣の「石生山城」も、この石井氏に関連した城と思われる。 さて、先学のおかげで、石井城の場所はだいたい掴めていた。 しかし、歩いてみると、なかなか現場に遭遇できない。 そこで、近くのお宅でお話を伺うことに・・・・ __________________________________________ 「あのぅ、すみません。 このあたりに石井城っちゅーお城跡があると聞いてきたのですが、ご存知ですか?」 「はぁ?お城???しらねーなぁ。おい、お前知ってるか?」 と尋ねられた奥さんも、大きく首を横に振る。 「ほんと、ここなの?」・・・と管理人の地図を見ながら、しばしの会話。 「お宅様の裏の、向こうのぉ、林あたりなんですがねぇ」 仕方がないので、怪しげな林の中の立ち入りをお断りして立ち去った。 まあ、だいたい中世城郭の扱いはこんなもんである。 _________________________________________________ さて、怪しい林は下の写真。 最近、ちょっと草や虫が多くなって、城歩きも躊躇するようになってきた。 勇気を少し出して、怪しい林の中と、その周りの調査に取り掛かった。 --------------------------------------------------------- |
【解説】 そして、描き上がったのが下の縄張り図である。 林と、水田の間には、きれいに堀跡が残っている。 「おぉ~!」 おそらく主郭の反対側の壁。 こちら側は、かなり後世に崩されている。 空堀も埋められてしまったようだ。 また、北側の土塁であるが、形状が異状である。 とにかく、凸凹が激しい。 堀外部も、かなり凸凹している。 この凹凸は、鉱物の試掘跡とも考えらるそうである。 残念ながら、管理人は昔の鉱物試掘がどのように行われたのか、 知識を持ち合わせていない。 しかし、この周辺に田んぼ、畑が多いことがとても気になる。 主郭には廃屋となっているが、かつてHさんのお宅であった。 その前面は全て畑であったようである。 ここを畑にするために、当城はかなり開墾されてしまった。 それは、図を見ても明らかであろう。 堀が完全に埋められてしまっている。 管理人は考えるのだが、この土塁の凹凸は、開墾のために土を持ち出したり、 いらない土を排出したりした跡なのではないだろうか? いわゆる、造成の跡。 ユンボ等でA部から侵入すれば、土塁の土で、堀や、段差を埋められる。 平らな地面を掘って土を取るより、土塁からなら手っ取り早く土が掻き出せる。 堀内北西部はかなり引っ掻き回された跡が残っている。 また、土塁外側のBからも、凸凹地形内には侵入できる。 いずれにしろ、このエリアは築城当時のオリジナルの姿では無いことは間違いなさそうだ。 ◆Google map より◆ 航空写真で石井城を確認。 おぉ、案外形が掴めるなぁ。 ※なお、お話を伺うことができなかったが、当城の東側に、石井姓を名乗る方が住んでいらっしゃる。 (石井城・コンプリート) |
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【城の概要】上郷龍崖城は、那珂川町・武茂氏の流れを汲む大山田氏の城という。
戦国時代佐竹氏の侵攻によって責め滅ぼされ、廃城になったという。
天端のハッキリしない城 2016/10/20、10/22 公開 |
さて、今日は有休だ。 折角のいい天気。 ”ちょっと北方の城でも見に行くか!”と、出かけたのが那珂川町・上郷龍崖城である。 この城は、はっきり言って超田舎に所在する。 地図をご覧になって頂ければ一目瞭然。 なんでこんな所に城があるのか?と思いきや、現在も茨城から黒羽方面に抜ける国道461号が通るのである。 往時から重要な街道だったに違いない。 __________________________________________ さて、城へのアプローチ。 国道461号は、武茂川を大山田上郷地域で交差する。 その橋の袂に←写真のような看板がある。 橋からは、↓写真のような廃屋が見えるので、この脇から山に入るのがベストである。 よく観察すると、山に向かって使い古された林道が登っている。 これをたどれば城址である。 しかし、言っては悪いが、本当に寂しい山である。 人と出会うことはマズないだろう。 管理人の熊鈴だけが、寂しい山あいに響く。 何度も言うが、いくら街道沿いとは言え、なんでここに城作る必要があったのだろう?・・・理解に苦しむ。 ◆アプリ・やまやまより(城の位置詳細) ◆現地縄張り図 |
【解説】 ◆縄張り彩色図 林道を登りきると、写真↓の堀切内に出てくる。 ◆堀切(虎口から望む) 林道は、さらに奥にも続いている。 ここには虎口が存在し、これを登れば、主郭方面である。 ◆堀切内の主郭へ続く虎口 __________________________________________ 主郭である。 辺鄙な割には、結構広い。 収容人数は、かなりありそうだ。 写真は、主郭の壁である。 この城全体に言えることなのであるが、 なにしろ壁の天端が ハッキリしない。 ダラーンとヘリがはっきりせず、途中で急斜面になる。 長年の風雪によって、削り取られてしまうこともあろうが、もともと加工が甘かった可能性もある。 この様な状況は、縄張り図描き泣かせである。 ヘリがはっきりしないと、曲輪の形が掴みづらいのである。 測量の辻褄が合わなくて、何度も書き直しをしてしまう。 ”よもやま話”の項に、茨城県「谷中城」を記載しているが、ここも曲輪のヘリがダラーンとしてしまって、形の取りにくい城であった。 _________________________________________ さて、話を戻そう。 主郭西の尾根続きは、二重堀切となっている。 これが、結構立派で、きっちり造られている。 ◆二重堀切(正面が主郭) 二重堀切を主郭側から望む。 堀切両端は縦堀となって斜面を下るが、そんなに長いものでは無い。 主郭および、それに続く曲輪の側面には、 長い帯状の曲輪が寄り添っている。 これを、城道と解釈できなくもないが、 左写真のように途中で断絶し、高低差がつけられている。 実質、曲輪の連続性は無くなっている。 _________________________________________ さて主郭以外、その他の遺構であるが、 前述の林道を辿り、奥に行ってみると、 南に飛び出した尾根上にも何段か曲輪を備えている。 また主郭の西には、城外との仕切りというべきか、 綺麗で大きな堀切が一本残る。 ←写真・城外側から ↓写真・堀切は縦堀となるが、 それほど長いものではない。 ※PS ちなみに、城と反対側の尾根にも行ってみましたが、遺構はありません。 あしからず。 ◆アプリ やまやま より (上郷龍崖完了) |