2019
那須塩原市2 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
狭間城sk | 離室城sk | 塩原城sk |
狭間城
【城の概要】
塩原温泉街を流れるの箒川の対岸、その崖端に作られたこの城は、通常では近寄りがたい場所にある。
なぜ、このようなところに城が築かれたのか定かではないが、
構造的には堀に”折り”も見られ、主郭を外周する外堀は、なかなか見ごたえがある。
第2回 仰天!なんで、こんな所に!こりゃぁ~凄いわ。 2014/05/10 |
昨年恐怖に震え、調査を投げ出してしまった、この城。 今回はそのリベンジである。 箱森プレイパークに向かう橋を渡り、細い路地をすぐ右折する。 しばらく進むと、廃業した大きな旅館に突き当たる。 車は、ここに置かせてもらおう。 ◆写真は駐車場所 城へは、ここから箒川下流、東に向かう。 ◆狭間城位置図(国土電子ポータル) 箒川へ流れ込む小さな支流に出たら、そこから支流越しに山を登る。 ◆写真は支流 適当なところで、支流を渡り、箒川の崖伝いに東を目指そう。 ◆管理人の渡河点 そうすると、不思議なことに、遊歩道の残骸に出くわす。 写真のように、階段まで整備されていたようだ。 今は訪れる人もなく、荒れるに任せている。 ※注意 前回も書いたが、箒川沿いに河川敷を歩き、城山直下から直登することは困難・・と、いうか危険である。 このアプローチは避けたほうが賢明。 しかし、前回とは違い、道も城跡の所在もわかっている。 やっぱ、こうじゃなくっちゃ。 で、描き上げた図が、以下である。 |
【解説】 狭間城域に達すると、出迎えてくれるのは、①北限の堀である。 これを超えると、狭間城の主要部になってくる。 主郭部まわりの空堀②が見えてきた。 主郭内部には、五輪塔のような宝筐印塔のような③ がある。 笠塔婆であろうか? 銘文を読みたいが、 知識を持ち合わせていないので不可能だった。 主郭内部は、加工が甘いが、 その外周には、明確な切岸がある。 横堀が巡っていた様相が見て取れる。④ 主郭を囲む堀の外側にも、大きな範囲を持って横堀が巡る。 写真は、 主郭下から派生する外周の横堀⑤。 少し縦堀状になって南東に下る。 外周の堀を辿ると、ビックリ! 堀が2箇所クランクしている。 『横矢』の発想をもった堀なのである。⑥ ◆写真は左手にクランクしている。マウスを乗せよう 外周の堀は、上下動しながら大きく山を一巡し、最終的に北限の堀①に達する。 城の中枢部から、東側に少し離れてみよう。 ここには、山間部にしては妙に平坦地⑦が広がる。 あたりを観察すると、 幅の広い土手⑧が、城の東に鎮座する。 土手をよく見てみると、表面に石が沢山見て取れる。 戦闘の時に使ったものであろうか? また、⑧土手の北側には不思議な石塁⑨が走る。 石塁上には、土地境界の標柱が何本か立っており、 近代に作られた可能性もある。 よくわからない。 全体的に言うと、急ごしらえ感が強い城である。。 曲輪の加工の甘いところが目立つし、堀の規模も決して大きくない。 しかし、ただならぬ緊張感が感じ取れる城である。 地元情報によると、 文明7年(1475)塩原氏(小山氏)が、離室城(下に紹介)の君嶋氏と激戦の中、またはその末に、 狭間城を築いたという。 これが真実であれば、この城の持つ緊張感が理解できなくもない。 ただ、何度もいうが、この城は塩原の町と箒川を挟んだ対岸にある。 城から塩原の街がすぐそこに見えるものの、対岸の街との連絡は極めて取りづらい。 非常にAWAYな場所に立地している。 これが、私の恐怖感を生んだ原因でもある。 往時から塩原の街の位置は、大きく変わっていないだろう。 そうすると、この城の立地条件が、今一つ納得がいかないのである。 タイトルの、”なーんで、こんなところに”の所以である。 ◆秋の狭間城 (狭間城コンプリート) |
離室城sk
挽回!離室城sk 2013/11/19 2013~2014シーズン第6弾 |
狭間城を投げ出した私。 リベンジで、その足で、離室城に。 こっちは、見学しやすかった。 城は、那須塩原温泉のど真ん中にある。 蛇行した箒川を臨む、小山の上だ。 近くを”ヤマユリの吊り橋”が架かっており、わりと場所は分かりやすい。 橋を渡り、白雲荘という潰れた建物の裏から、山に取り付けば良い。 城は、南側の尾根続きを堀切で断絶し、 北は曲輪を段々畑のようにしたシンプルな構造と思われる。 遺構はそこそこ残っているが、 先の南側の堀切、土塁以外は、改変の可能性が否めない。 特に主郭内部および主郭北斜面は人の居住の痕跡がある。 あちこちに石が転がっており、畑などの可能性もある。 北側段々の中には、虎口のような跡もあるが、どこまでが本物だろうか? 主郭土塁 主郭堀切 主郭切岸 箒川越しに城を望む (簡単ですが、離室城コンプリート) |
塩原城sk 城の位置電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
塩原城sk 2017/05/07 2016~17シーズンラストの城 |
当城は、那須塩原市の字要害にある。 国道400号沿い、塩原温泉街を西に抜けた山奥である。 この城は、戦国期に宇都宮氏家臣・塩原氏によって、現在の形になったされる。 どうしてこのような場所に城を築いたのだろうか? 周辺の城の存在から、温泉街を通る国道は、昔からの街道であることにまちがいは無い。 しかし塩原城の位置は、管理人には、ちょっと理解しがたい場所なのである。 ただ、城を歩くとわかるのが、他の塩原温泉街の城と違い、周りには平坦地が多く、水も豊富だ。 現在も水田や畑が作られ、広い空間のある谷間となっている。 農産物の収穫を期待して、この地に城を作ったのだろうか??? 城の東には字 ”戦場” という場所もある。 要害に戦場・・・・・ どんな戦いかは全く不明だが、おそらく大きな戦いが行われていた、ということだろう。 農産物以外に、もっと大きな守りたい物があったような気がしてならない。 ”金”などの鉱山産業でもあったのだろうか? まさか、”塩原の温泉街”を守るために築かれたのだろうか? ネットを探ってみると、かつて、この塩原から桃の木峠を経て、 山王峠まで出る道 『三島街道』 が整備されたそうだ。 この道があったとすると、ウトウ沢川に沿って、 塩原側はこの城の東にある道に出たと思われる。 塩原ー山王峠・・・・ この道があれば、塩原城が街道監視のため、 今の位置にあると考えることもできる。 ただし、三島街道開通は明治17年の話。 塩原城の歴史と結びつけるには、ちょっと無理があるか・・・・・ 中世に、この道がなかったのだろうか・・・? ◆YAHOO地図より _____________________________________________________________ 車は城跡の傍らに置かせていただく。 _____________________________________________ ◆ 現地縄張り図 |
【解説】 森の中をウロウロしていると 主郭のコーナー部土塁が見えてきた。 土塁手前、堀の中はジメジメしており、近くには溜池もある。 水堀だった可能性が高そうだ。 よく観察すると、このコーナー部は矢倉台になっている。 写真はそこから手前方向に伸びる土塁。 矢倉台からは、南に空堀が伸びていく。 堀は浅く、まるで道跡のようだ。 向かって左側の壁には、多数の小岩が転がっている。 堀の主郭側に上がると、きっちりと土塁が残っている。 堀の最先端は、 身震いするような鋭い崖!である。 上の写真から崖沿いに進む。 結局、箒川に面した方向は、すべて崖となっている。 崖を伝っていくと、大きな壁が。 しばらく北に向かうと、そこには案内看板もある。 どうやらこちら側が、城の正面らしい。 高い壁沿いには土塁も一部残る。 平野部では桜も散ったというのに、 ここの八重桜は満開である。 城外側から見た壁は、かなりの迫力がある。 壁の最北側は、崩れなのか、堀の名残なのか、 縦堀状の坂道が存在する。 その袂に、小さな五輪塔が残る。 畑に出ていたご主人の話だと、ここ塩原城主の墓だとされている。 子供のころ、お参りに連れて行かれたそうだ。 ◆城主の墓という五輪塔 再度申し上げるが、塩原城の立地場所は不思議である。 やはり、冒頭で述べた街道が、ここ塩原城より北上していたのではなかろうか。 でなければ、塩原温泉街からも離れ、しかも行くづらく、さらにはこんな断崖絶壁の地に、城を築く意味がわからない。 (塩原城コンプリート) |