2019

那須塩原市2 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします 



 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。  

狭間城sk 離室城sk 塩原城sk



狭間城

【城の概要】
塩原温泉街を流れるの箒川の対岸、その崖端に作られたこの城は、通常では近寄りがたい場所にある。
なぜ、このようなところに城が築かれたのか定かではないが、
構造的には堀に”折り”も見られ、主郭を外周する外堀は、なかなか見ごたえがある。




第1回 残念ながら調査未完。近くなんだけど、遠い城。
     
今回はレポートです。2013/11/16 13                 2013~2014シーズン第5弾0
 

 こんな、恐怖感。久しぶりだ。



話の発端は、
紅吊り橋に女房と出かけた時の事。
塩原温泉街の中に、塩原城がある事はよく知られている。

しかし、それ以外にも城が2つもあることがわかった。
そのひとつが狭間城で、生涯学習課の資料には以下の記述がある。



赤線部分。
こんな事書かれりゃ、行くしかないでしょ。





しかし、城の位置がよくわからない。
そこで、上記の写真と、当HPお客様シボレさんのHP情報から、下の場所を狭間城と推定した。

                 


早速支度を整え、塩原温泉に向かう。

しかし、今日は昨晩の飲み会で、今一体調が良くなかった。
しかも、出発が昼過ぎであった。




塩原温泉内、妙雲寺横の観光専用駐車場に車を止め、戦闘開始。
当然、城までの道があるわけでもなく、私の頭の中では、以下のように到達方法を考えていた。

 




 妙雲寺の墓地に沿って、沢沿いにのぼる。



 沢を渡る橋があるようなので、それを渡り、
 あとは、等高線に沿って、城まで山を巻こうと考えた。




































     ところがである!











  

 みなさん、ご注意!
 等高線は大したことなさそうだが、赤のエリア、

 全部、崖です!!

 塩原渓谷とは、よく言ったもので
 つまりは、木も生えていない
なのです。



 結局、私は赤い点々を歩くことに・・・・・・
 それは、それは、すごい恐怖感。
 疲れが、倍増だ。




⇒マウスを乗せよう







はらはらしながら、城跡推定地についたものの、”今来た道を戻るのか・・?”と考えたら、体が震えだした。
とてもじゃないが、
今来た道は戻れない。

城の周りも崖で、川に降りることもできない。


つまりは、

        帰り道がわからない!!



そう思ったら、気が気で無くなった。
体が震え、鉛筆を持つ手が震えた。


時刻は午後1時になろうとしている。
今は日も短く、日が暮れるまであまり時間も無い。

那珂川町・鳴神山での悪夢が蘇った。
体の震えが止まらない。


対岸に街は見えるが、戻る術がわからない。
言い知れぬ恐怖感が身を包んだ。

帰れるのだろうか・・
そう、思うと息があがる。。。。



退路を絶たれた武将は、こんな気持ちになるのではなかろうか・・・・

こんな恐怖を覚えたのは久しぶりだ。

そうだ、日が暮れて体が疲れる前に、

 『縄張り図書きどころじゃない。
       このままじゃ、いかん!
           とにかく帰る道を探さねば・・』



ところで、城跡推定場所は完全な自然地形だ。
その自然地形を、離れた場所であるが、どうも堀が巻いているように見えた。
堀の写真が下。



最初は、道の跡かと思ったが、崖端まで伸びている。

道であれば、崖の端っこまで道を作る必要はないはず。。。


そこで多分、堀であろうと判断した。


低い山頂には五輪塔?もあり、その周りを浅く堀が囲む。


なんか微妙だが、城っぽいなぁ・・・・


・・と思いつつ、恐怖感が再びおそう。







       ⇒現地完全ラフ図




結局、ここまで確認してこの場を退散することに。

帰りは、城から西に向かおう。
でも、こっちも崖だったらどうしよう・・・????


万能なる地形図でも、読めない現実がある。

全く道がない。
恐怖が再びおそう。
帰れない・・・ってことは無いよな・・・。

ところどころ、人工の階段が設けてある場所もある。
かつては遊歩道があったのかもしれないが、完全に朽ち果てている。

道っぽい所をたどるが、すぐに消失する。

              ⇒おそらく帰りのルート


ほどなく歩くが、行きに比べればまだマシ。


ここで、心の余裕が少し生まれてきた。


地図には出てないが、濡れながら途中いくつかの沢を渡らなければならない。
最終的には、潰れたホテルの横に出て、箱森プレイパークの入り口に出る。

         





              これで一安心




      

帰りしな、対岸から狭間城を望む。

こうすると川沿いに行けるようにも見えるが、やめたほうが良い。
川に接する部分は、全て崖である。

            ⇒狭間城

     


塩原の交番前から狭間城を望む。


  仕方がないけど、また来るか・・・・・・。
  今度は、城の西から攻めよう。

  

        しかし、


           めちゃ、こわかったぁぁぁ






第2回 仰天!なんで、こんな所に!こりゃぁ~凄いわ。  2014/05/10
              

  昨年恐怖に震え、調査を投げ出してしまった、この城。
 今回はそのリベンジである。

 箱森プレイパークに向かう橋を渡り、細い路地をすぐ右折する。
 しばらく進むと、廃業した大きな旅館に突き当たる。
 車は、ここに置かせてもらおう。


◆写真は駐車場所





             




城へは、ここから箒川下流、東に向かう。









◆狭間城位置図(国土電子ポータル)





  箒川へ流れ込む小さな支流に出たら、そこから支流越しに山を登る。
    
◆写真は支流




適当なところで、支流を渡り、箒川の崖伝いに東を目指そう。


     





◆管理人の渡河点




 
 そうすると、不思議なことに、遊歩道の残骸に出くわす。
 写真のように、階段まで整備されていたようだ。
 今は訪れる人もなく、荒れるに任せている。
           
         
  ※注意
                 前回も書いたが、箒川沿いに河川敷を歩き、城山直下から直登することは困難・・と、いうか危険である。
                 このアプローチは避けたほうが賢明。





        しかし、前回とは違い、道も城跡の所在もわかっている。
            心の余裕度が全く違う。
        やっぱ、こうじゃなくっちゃ。






        で、描き上げた図が、以下である。

                




 
【解説】

         


 狭間城域に達すると、出迎えてくれるのは、
北限の堀である。
          

 これを超えると、狭間城の主要部になってくる。

 


主郭部まわりの空堀
が見えてきた。

 









主郭内部には、五輪塔のような宝筐印塔のような

がある。
笠塔婆であろうか?

銘文を読みたいが、
知識を持ち合わせていないので不可能だった。

 

















主郭内部は、加工が甘いが、
その外周には、明確な切岸がある。
横堀が巡っていた様相が見て取れる。



  


















 主郭を囲む堀の外側にも、大きな範囲を持って横堀が巡る。





写真は、
主郭下から派生する外周の横堀


少し縦堀状になって南東に下る。




   







 外周の堀を辿ると、ビックリ!
 堀が2箇所クランクしている。
 『横矢』の発想をもった堀なのである。


  
             
◆写真は左手にクランクしているマウスを乗せよう








 外周の堀は、上下動しながら大きく山を一巡し、最終的に北限の堀
に達する。
         





 城の中枢部から、東側に少し離れてみよう。
 ここには、山間部にしては妙に平坦地
が広がる。





あたりを観察すると、
幅の広い土手
が、城の東に鎮座する。

土手をよく見てみると、表面に石が沢山見て取れる。
戦闘の時に使ったものであろうか?



 












また、⑧土手の北側には不思議な石塁
が走る。

石塁上には、土地境界の標柱が何本か立っており、
近代に作られた可能性もある。

よくわからない。

    







全体的に言うと、急ごしらえ感が強い城である。。
曲輪の加工の甘いところが目立つし、堀の規模も決して大きくない。
しかし、ただならぬ緊張感が感じ取れる城である。


地元情報によると、
文明7年(1475)塩原氏(小山氏)が、離室城(下に紹介)の君嶋氏と激戦の中、またはその末に、
狭間城を築いたという。
これが真実であれば、この城の持つ緊張感が理解できなくもない。


ただ、何度もいうが、この城は塩原の町と箒川を挟んだ対岸にある。
城から塩原の街がすぐそこに見えるものの、対岸の街との連絡は極めて取りづらい。
非常にAWAYな場所に立地している。
これが、私の恐怖感を生んだ原因でもある。

往時から塩原の街の位置は、大きく変わっていないだろう。
そうすると、この城の立地条件が、今一つ納得がいかないのである。
タイトルの、”なーんで、こんなところに”の所以である。

                      ◆秋の狭間城


                                     (狭間城コンプリート)





離室城sk

挽回!離室城sk  2013/11/19 2013~2014シーズン第6弾
              




このままじゃいかん
狭間城を投げ出した私。
リベンジで、その足で、離室城に。



こっちは、見学しやすかった。

城は、那須塩原温泉のど真ん中にある。

蛇行した箒川を臨む、小山の上だ。
近くを”ヤマユリの吊り橋”が架かっており、わりと場所は分かりやすい。
橋を渡り、白雲荘という潰れた建物の裏から、山に取り付けば良い。

城は、南側の尾根続きを堀切で断絶し、
北は曲輪を段々畑のようにしたシンプルな構造と思われる。
遺構はそこそこ残っているが、
先の南側の堀切、土塁以外は、改変の可能性が否めない。

特に主郭内部および主郭北斜面は人の居住の痕跡がある。
あちこちに石が転がっており、畑などの可能性もある。
北側段々の中には、虎口のような跡もあるが、どこまでが本物だろうか?










    主郭土塁





     主郭堀切



     主郭切岸



     

     箒川越しに城を望む

                               (簡単ですが、離室城コンプリート)        







塩原城sk 城の位置電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

【城の概要】
塩原氏によって築かれたこの城であるが、立地条件が極めて異例であり、断崖絶壁上にある。
管理人は、当城から北に抜ける街道のための城と推察する。
とにかく凄い断崖上にあるので、見学には十分注意しよう。



塩原城sk  2017/05/07 2016~17シーズンラストの城
              


 当城は、那須塩原市の字要害にある。
 国道400号沿い、塩原温泉街を西に抜けた山奥である。

 この城は、
戦国期に宇都宮氏家臣・塩原氏によって、現在の形になったされる。
 どうしてこのような場所に城を築いたのだろうか?
 周辺の城の存在から、温泉街を通る国道は、昔からの街道であることにまちがいは無い。
 しかし塩原城の位置は、管理人には、ちょっと理解しがたい場所なのである。

 ただ、城を歩くとわかるのが、他の塩原温泉街の城と違い、周りには平坦地が多く、水も豊富だ。
 現在も水田や畑が作られ、広い空間のある谷間となっている。
 農産物の収穫を期待して、この地に城を作ったのだろうか???
 

 城の東には字 
戦場” という場所もある。
  
 要害に戦場・・・・・ 

 どんな戦いかは全く不明だが、おそらく大きな戦いが行われていた、ということだろう。
 農産物以外に、もっと大きな守りたい物があったような気がしてならない。
 ”金”などの鉱山産業でもあったのだろうか?
 まさか、”塩原の温泉街”を守るために築かれたのだろうか?




                    



 





ネットを探ってみると、かつて、この塩原から桃の木峠を経て、
山王峠まで出る道 『三島街道』 が整備されたそうだ。


この道があったとすると、ウトウ沢川に沿って、
塩原側はこの城の東にある道に出たと思われる。


 塩原ー山王峠・・・・



この道があれば、塩原城が街道監視のため、
今の位置にあると考えることもできる。

ただし、三島街道開通は明治17年の話。
塩原城の歴史と結びつけるには、ちょっと無理があるか・・・・・

中世に、この道がなかったのだろうか・・・?







◆YAHOO地図より






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車は城跡の傍らに置かせていただく。












           

         _____________________________________________ 

                 ◆ 現地縄張り図
                 


 
【解説】
             





森の中をウロウロしていると
主郭のコーナー部土塁が見えてきた。


土塁手前、堀の中はジメジメしており、近くには溜池もある。
水堀だった可能性が高そうだ。








よく観察すると、このコーナー部は矢倉台になっている。

写真はそこから手前方向に伸びる土塁。


  





矢倉台からは、南に空堀が伸びていく。






堀は浅く、まるで道跡のようだ。
向かって左側の壁には、多数の小岩が転がっている。








堀の主郭側に上がると、きっちりと土塁が残っている。














堀の最先端は、
身震いするような鋭い
崖!である。













上の写真から崖沿いに進む。

結局、箒川に面した方向は、すべて崖となっている。

























崖を伝っていくと、大きな壁が。

しばらく北に向かうと、そこには案内看板もある。
どうやらこちら側が、城の正面らしい。













高い壁沿いには土塁も一部残る。



平野部では桜も散ったというのに、
ここの八重桜は満開である。








            
 城外側から見た壁は、かなりの迫力がある。



  
















壁の最北側は、崩れなのか、堀の名残なのか、
縦堀状の坂道が存在する。

その袂に、小さな五輪塔が残る。
畑に出ていたご主人の話だと、ここ塩原城主の墓だとされている。
子供のころ、お参りに連れて行かれたそうだ。

   




                   ◆城主の墓という五輪塔


 再度申し上げるが、塩原城の立地場所は不思議である。
 やはり、冒頭で述べた街道が、ここ塩原城より北上していたのではなかろうか。
 でなければ、塩原温泉街からも離れ、しかも行くづらく、さらにはこんな断崖絶壁の地に、城を築く意味がわからない。



                                     (塩原城コンプリート)






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