2019
栃木市(旧西方町)
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
西方城第9回~14回 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
第1回~8回 |
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西方城彩色図完成!! 2016/6/12
西方城・第18回・ 彩色開始 2016/4/28~ 6/12 | |
今日から連休。 まずは清書縄張り図をデジタル化する 今度は、画像ソフトで色付けをする 最後に立体感を出すために影付けする。 光の方向をあらかじめ決めておく |
西方城・第17回・ 浄書完成 2016/4/24 | |
浄書が、完成。 ゴルフ場外の遺構も含め完成した。 あとは、縮小して、デジタル化し、色付けして本当の完成。 マダマダ、西方城を完全攻略できてない。 |
西方城・第16回・ 浄書進捗 2016/4/17 | |
浄書を開始して、はや2週間。 これから等高線を入れて、ゴルフ場の向こう側に見つけた新遺構を付け足して・・・・・ 彩色図までは、あと一ヶ月以上かかりそうだ。 |
西方城・第15回・ 浄書開始 2016/4/5 | |
浄書、開始! 完成は、いったいいつになるのやら・・・・・ |
西方城・第14回・ 調査完了 2016/3/4 | |
2011年から調査を始めた西方城。 今回の訪城で、やっと調査の完了だ。 いまから5年前、東日本大震災のあと、栃木の職場が壊滅した。 私たちの職場は、鈴鹿、狭山で活動を再開することになった。 従って私は、狭山に単身赴任を余儀なくされた。 家族の顔を見に、毎週、狭山から栃木に帰った。 その帰りしな立ち寄ったのが、第一回目の西方城である。 管理人にとっては、とても思い出深い。 始めた当初は、描き終わる気が全くしなかったが、とうとうこの日を迎えた。 主郭南面など、激藪の連続で、少々自信のないところも若干あるが、今後は浄書の段階に移行していきたいと思う。 ___________________________________________________ さて本日締めくくりのお題は、❶山上部の先端部の遺構、❷縦堀、❸山腹の湧水地の観察だ。 ❶山上の先端部の遺構は、草もきれいにかられていて見やすいが、❷❸は第13回の続きの藪で苦労しそうだ。 ___________________________________________________ ❶の遺構 赤の線が導線と考えられる。 まず、外部からの敵は、土手の隙間の”虎口”から侵入する。 その先には堀で挟まれた、独立したA空間から横矢がかけられている。 もし、これを突破できたとしても、さらにその先には 上位の曲輪Bからの正面攻撃だ。 これでは突破できるわけがない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ❷の遺構 計算されて作られたこの縦堀は、西方城を代表する遺構である。 縦堀は、途中途中で直角に曲がり、 横矢攻撃を可能にしながら、斜面を下っている。 栃木県内で色々城を見てきたが、 縦堀途中で、横矢掛けを持った城は、西方城だけである。 この発想は非常に”新しいもの”と筆者は考えている。 それは、狙いが近世城郭の”登り石垣”に似ているからだ。 代表的なのは、豊臣秀吉の倭城。 そして、国内でも竹田城や彦根城や松江城など、 登り石垣を有する城が幾つかあるが、 途中途中に横矢を設けているのは、 倭城の熊川城、西生浦城、彦根城などに限定されていそうだ。 それほどの発想力が西方城にはあった。 となると、この城の築城時期は、かなり近世に近い物ではなかろうか。 この縦堀脇、曲輪内部は西方城お得意の藪である。 見学の際は、ご注意を。。。。。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ❸の遺構 続いて❸の湧水地である。 私見では、すくなくとも3箇所の井戸・・というか池の跡があったと考える。 3つ共に、現在は、水は溜まっていないが、 その下段の斜面からは、今でもこんこんと水が湧き出している。 井戸、または池跡には大きな岩がゴロンと置かれているのも特徴だ。 かつては石組みであったか、庭園のようになっていたと見る見方もあろう。 ともかく、城内の水確保のメインは、ここであったと考えられる。 また、この曲輪内を通す導線がおもしろい。 井戸、または池を利用しながら、枡形形式で導線を屈曲させている。 赤線 ◆北側の井戸、または池跡 また西方城のガイドによれば、山上❶の遺構そばにも、水の手があったという。 ちょうど❶のAの曲輪の北側である。 現地には確かに「水の手」の看板は立っているものの、 水の気配は全くしない。 ◆山上の水の手跡? (第14回 調査完了)) |
西方城・第13回・ 激藪 2016/2/11 | |
今回の訪城目的は、いままで避けに避けていた主郭東面の調査である。 第11回で前哨戦を行ったわけであるが、今回はその続き。 行く前から、心が折れそう・・・・いや、心が折れていた。 「あの藪に、また入るのかぁ~、嫌だなぁ~。」 ___________________________________________________ まず、結果からおみせしよう。。 左図が、出来高である。 黄色の網掛けが、今回の調査した部分。 約4時間、城にいたものの、コレしか描けなかった。 その理由が以下である。 ___________________________________________________ なにしろ、すごい”激藪”なのである。 上の写真は、管理人の目線の高さ。 この小竹と、それに巻き付く蔓系の植物が絡み合い、視界はZERO! もちろん、表面観察で大切な地面が、よく見えない。 もっといけないのは、歩けないのだ。 またぐことはできないし、藪の根元の間隙を、ほふく前進するような状況。 これでは、良い調査はできない。 図面にはしたものの、歩測は効かないし、七転八倒していているうちに、自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。 だから、ちょっと今回の図面描きには自信が無い。 ___________________________________________________ 激藪はA近辺から始まる。 歩測していたが、途中で全然合わなくなってしまった。 第11回で通路Bを確認したが、Bの通路上は激藪でたどれない。 仕方がないので、通路の壁面を、かがみ込みながら確認していくと、 下の曲輪の直前で、通路は斜面に吸収されているようだった。 特に藪がひどいのがCの○エリア。 ここは、本当にだめだ。 藪が横倒しになっており、前にも、横にも、斜めにも進めない。 上にも、下にも行けない。 藪が覆いかぶさり、地面の起伏が読めない。 おまけに、タラの木も生えていて、握ってしまい、大騒ぎ。 もがきにもがいて見てみると 主郭方向から落ちるCエリアの縦堀は、地元の案内図では、 上から下までストレートの縦堀になっているが、 管理人は、なんとなく、縦堀が途中で一旦消えているように思える。 またCには小さな尾根が派生しているようで、 尾根の形に沿って、出っ張った曲輪があるようだ。 まあ、この辺は「勘」で描いている事をご容赦願いたい。 いままで全国で色々な城を見てきたが、 大抵、藪には、どこかに切れ目ができるものだ。 しかし、この西方の藪は、そんなこと言ってられない。 海である。 ヤブの海! でも、泳げない A区域調査の途中、少しだけ下界(このような所にいると、そう言いたくなる)が見える所にでた。 息継ぎのような気持ちになる。 藪がなきゃ、こんなに眺めが良いのに・・・・ ・・この藪の原因は木である。 この斜面にだけ、なぜか、高い木が一本も無いのだ。 いつの時代か知らないが、全部伐採されてしまったのだろう。 その代わり、陽の光を自由に浴びれるようになった低木、低草が、伸びれるだけ伸び放題。 藪が成長に成長を繰り返し、今に至ったと思われる。 保存会の方々、なんとかならないものでしょうか・・・・・ しかし、今回の調査は、 I'm not confidence ! あーちかれた! おかげで鼻の穴真っ黒! 服の中、葉っぱだらけ!顔中傷だらけ!・・・・家に入れてもらえるかな? (第13回 おわり) |
西方城・第12回その2・ 西方城南続きの山 2016/1/27 | |
新たな西方城の残存遺構を発見した管理人。 その遺構にたどり着くには、山の登り降りを2度繰り返さないといけない事に・・・ 「そうだ!遠回りしたついでに、目的地のさらに南の稜線をたどってみるか!」 今回はそのレポートである。 ___________________________________________________ ◆電子国土より 諏訪山”北城”の大発見で気を良くした私。 城に行くと、どうしても山の峰続きが気になって仕方がない。 もう、病気である。。。。。 さて、左の図を見ていただこう。 ”ついでの調査区域”は、ピンクの網掛けの部分だ。 標高215m付近が一番怪しい。 ちょっとダラッとした山容で、西方城の南方をサポートするには良い位置だろう。 新たな残存遺構から、進路を南に向ける。 この山あいを城跡調査した人は今まで誰もいないだろう、、、。 調査区域の山の稜線は、驚くほど緩やかで、さっきまでかいた汗がつめたくなるほどだ。 平坦なこの地に、城跡があったら、またまた大発見だ。 こんな簡単に登れる山に、もし城跡があったら、誰かが気付いてもおかしくない。 でも、諏訪山”北城”みたいに、人々の記憶から、いつの間にか消し去られてしまう大城郭もある。。。。 ___と、自問自答しながら、あっという間に標高 215メートル近辺に来てしまった。 遺構は・・・・・・・・・・ない。 ◆215m付近 来たついでに、そこからさらに南東に向かってみる。 峰の、先端まで行ってみたが、やはり何もない。 結局、西方城の南の山には、遺構は皆無だった。 あーちかれた! ちなみに、管理人の調査したログは以下である。 ◆YAMAPより ※本来であれば『情報調査』のコラムに載せるべき内容ですが、西方城の峯続きという位置関係であり、本編に掲載させていただいております。 (第12回 その2 おわり) |
西方城・第12回その1・発見!西方城残存遺構 2016/1/27 | |
管理人は、新たな西方城の残存遺構を発見した。 今回はそのレポートである。 ____________________________________________ まだこの城の図面を描き終えていないものの、調査の過程で、どーしても気になる場所ができた。 その疑問の場所が以下である。 ◆電子国土より ◆電子国土より 既存の西方城の縄張り調査では、主郭から西に続く峰の遺構は 「ゴルフ場に全て破壊された」 と考えられている。 よって、主郭西峰に遺構を示す縄張り調査図は、管見の限り存在しない。 しかし、どうだろう? 上図の航空写真や、1/25000の地形図を参照すると、 ゴルフ場の西先の森は、自然林のままで、破壊を免れている様に見える。(上図赤、白○部分) ◆マウスを乗せよう 電子国土より さらに国土地理院の、1975年1月29日の冬に空撮された写真を見ると、 破壊を免れた森には建造物があり、そのまわりに堀のような形状も見受けられるではないか! 管理人は早速現地に入った____________ ______________________________________ ◆電子国土より 実はこの場所に行くのには、問題があった。 ◆目的地は、ゴルフ場向こうの林の中なのに・・・・ 目的地に行くには、ゴルフ場を突っ切れば、簡単である。 しかし、ゴルフ場と城跡の間には、柵が設けられており、 中に入れないようになっている。 無理して、柵を乗り越えたら不法侵入者だ。 入ったとしても、ゴルフをしているパーティもいて、 この格好じゃ誤魔化しも効かない。 ゴルフ場を避け、山腹を巻いて目的地にアプローチする方法もある。 でも、この山腹は、地図で見るよりずっと厳しい崖となっている。 この案もダメだ。 目的地の西側から攻めたいが、別のゴルフ場があり、近づけない さて、どうしたものか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・? ◆電子国土より 左図、1/10000の地図を見てみよう。 誰にも怪しまれず、思いっきり素直に行く方法がある。 それは図中 A方向 からのアプローチ。 ここから行けば、文句は言われまい。 しかし、この山塊は、下図のように2つのゴルフ場で挟まれている。 ゴルフ場からは、山に入れない。 つまり、Aから目的地に向かうには、ずーっと南方向、 ”反町” 付近から山に取り付かなければならないのだ。 厄介である・・・・・・・ ◆電子国土より ◆電子国土より そこで、管理人が考えたのは、南の丸Bからのアプローチ。 一度谷に降りなければならず、非効率だ。 激しい登り降りなってしまう。 帰りに、戻る為に、もう一度山を上り下りしなければならない。 ま、仕方ないか・・・・・。 ・・・・・・というわけで、計画実行! ______________________________________________ 息も絶え絶えになってしまったが、幸い雪も少なく、目的地に到着できた。 航空写真に写っていた建築物は、下写真の神社であった。 高龗神社(たかお)というらしい。 縁起によれば、この神社は西方城の守護神として、現在地の北方100mにあったが、昭和48年に当地に移ったという。 おそらく、西の丸内に鎮座していたこの神社が、ゴルフ場建設のため、ここに移されたのだろう。 神社周りは整地されており、両サイドに土塁状の高まりが見られる。 鳥居の向こうには、西方城の主郭が見える。 神社周りは、綺麗に整地されており、特に南面には切岸状になっている。 ヤブで写真はないが、横堀も切岸に伴っている。 社屋の裏手に回ってみると、 低い土塁が、全体を囲んでいる事が分かる。 暗くて写真がボケてしまっているが、低い太い土塁である。 ◆マウスを乗せよう! 曲輪最西端には、写真ではわかりづらいが、 矢倉台?をともなった虎口状の入口がある。 それより外(西)は、細尾根となり、その先には遺構は無い。 ・・・・とは言っても、この先はゴルフ場で破壊されている。 ______________________________________________ ということで、描き上げたのが以下の縄張り図。 現地調査当初は、神社移築のための地形改変の可能性もあると考えていた。 しかし、自宅に帰り、栃木県文書館蔵の西方城の絵図と比べてみると、場所や、その曲輪形状が見事なまでに合致した。 よって、管理人の描いた図面は、神社による造作ではなく、西方城の遺構と確信できたのである。 西方城の、新しい現存遺構発見である! (第12回 その1 おわり) |
西方城・第11回・恐怖の藪こぎ 2016/1/9 | |
今日も思わず行ってしまった。 言わずもがな、西方城である。 娘の塾への送りついでに、またまたやって来てしまったのである。 もう、病気である。 ◆ここに来ると、でかい犬二匹に、毎回毎回必ずすごい剣幕で吠えられる・・・・いい加減覚えてくんないかなぁ。 今回のお題は、主郭から北に連なる連郭部の東側の曲輪。 先行図だと、ここに南北に走る帯状の曲輪が描かれている。 縄張り図作成は、標高の高い方から描く!のが鉄則。 早速作業に取り掛かった。 しかし・・・・・・・・・・・・ 堀を下ったらビックリ。 藪である。 連郭部の東斜面には高い樹が生えていないのである。 そのため、小竹が群生し、それに蔓系の植物が巻きつく最悪の状況。 朽ちた小竹が束になって真横に倒れ、そこに葉っぱが積もり、 まるでバリケードのように歩行を阻む。 おまけに視界が効かない。 地面を這うように身を低くし、この小竹のバリケードを突き進む。 蔓に足を取られ、全く進めない。 歩測も効かない。 最悪の状況! くっそーー! と、発狂しながら、なんとか2つの曲輪をかきあげた。 でも、この時点で完全グロッキー。 意気消沈である。 先行図では、さらにこの下にも帯状の曲輪が南北に描かれている。 「今日は、やめとこ。楽しみは取っておいた方がいいからね。」 と、自分でも訳のわからない理由をつぶやき、下山の途に着いた。 __________________________________________ でも、ただ下山するのもつまらないので、9回・10回の時に想定した ”麓に向かう道” を改めて辿ってみた。 前回来た時より注意深く道をたどると、 一度谷に出ることがわかった。 そこから切岸が作られている。 その切岸をたどると、 9・10回で確認した縦堀下の平坦地に繋がることがわかった。 ただし、切岸内部の削平は甘く、なんとなくしっくりこない。 切岸は間違いなく人工物であるのだが、曲輪内部が加工されていない。 何段か平坦部はあるのだが、城として評価して良いものだろうか? 山頂部の切岸と随分様子も違うのである。 また、麓までもう少し道が辿れるかと思いきや、 どこに行ったかさっぱりわからなくなってしまった。 ということで、城の図面として、 このあたりの段差を描くのはヤメようと判断した。 やはり、後世の改変が入っているのではなかろうか。 さて、そのまま下に下ると見えてきたのが、これ。 谷の中の池・・・というか泥沼である。 完全ぬかるんでいて歩行不能。 結構な広さで、下の1949年の古写真の矢印部あたり。 1975年のカラー写真より水田であったことがわかる。 ◆国土地理院地図検索より 1949年 1975年 (第11回おわり) |
西方城・第9/10回・今シーズン最初の西方城攻め 2016/1/4~5 | |
2016年、会社のお休を利用して西方城に出かけた。 さっそく先シーズンの続きである。 今回のお題は、通称 ”東の丸” 周辺の調査だ。 東の丸周辺を書き上げて気づいたが、この城はイマイチ「大手道が明確になっていない」ということだ。 「そうなると、大手道はどこなのか?」 と考えたときに、今日の東の丸下で、麓に向かう道を確認した。 唯一この城の中で、まともに山麓に向かっていそうな立派な道である。 非常に怪しい。 しかし、残念なことに、それは途中で消えてしまう。 崩れなのか、もともとなのかよくわからないが、兎に角無くなってしまうのだ。 でも今回、 緑矢印の縦堀が、最下端で綺麗な削平地とつながっていることを確認した。 やはり、この谷あいに大手道が伸びていた可能性が高いと言えないだろうか?
◆国土地理院地図、航空写真より |