2019
大田原市2
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
木須城(館)?? | 鎌足城?? | 大塚要害sk | 高館城sk |
『木須城(館)??』 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
こりゃ、全然だめ! 2017/02/12 |
NET情報から検索したのだが、『木須城』という城があるという。 『栃木県の中世城館跡』にもその名前が載っている 場所は、白鳥の渡来で有名な羽田沼のそば。 羽田小学校の目の前の丘陵がその跡という。 ネットでは、結構な遺構があることを示すものもある。 、早速行ってみることにしたが・・・・・・ 全くダメ! ネット情報で ”堀” と言っているのはただの道の跡。 まことしやかに横矢だ!切岸だ!と言っているのは、畑かなにかの跡だろう。 まったく情報元は、”城を見る目を持っていない” と言って良い。 これでは、どんなところも城になっちゃうでしょうがァ! あまりに頭にきて、途中で縄張り調査は中断。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 一応、価値もないだろう写真である。 ネットで ”堀” と言っているのは、ただの道の跡、そして筍取りの土取の跡である。 なにかの街道だったのだろう、ご覧のように道祖神の跡もある。 ネット上で主郭と想定している場所は、全くの自然地形である。 本当の木須城は一体どこにあるのだろうか・・・・??? (これ以上書いても意味がないので、おわり) |
『鎌足城??』 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
【城の概要】
まったくもって、城と言って良いものかどうか、自信がない。
『那須の戦国時代』の掲載図面とも、まったく異なる代物である。
後世に改変されてしまったのであろうか?
藤原鎌足の居城説があるが、まったくのハッタリであろう。
図面に記載した東西にある平坦地は、山を南北に突っ切る”切通道”の跡かも知れない。
う~ん・・・・・ 2017/02/12 |
『木須城』で、完全に頭に来た私。 ここから一番近い鎌足城に行ってみた。 『栃木県の中世城館跡』 『那須の戦国時代』 にも、その記載がある。 名前の ”鎌足” は、藤原鎌足が居た!という話もあるということであるが、全くのハッタリであろう。 場所は、誤情報の『木須城』の北西に当たる。 三角形頭の舌状台地の先端が、比定地とされている。 ただ、地形図上では非常にダラーンとした等高線の並びである。 当初から、 『ここもちょっと怪しいかも・・・・』 という不安感があった。 ◆那須の戦国時代より 『那須の戦国時代』 には、当城の縄張り図が掲載されている。 主郭を中心にぐるりと副郭が取り巻く形だ。 ”しかし、堀がないのが気になるなぁ・・・・・。” 主郭には何かの碑が立っているらしいので、これを目標に訪城してみよう! __________________________________ 台地先端の ”藤形公民館前” のバス停横から山に潜り込んだ。 しばらく登ると、なんとなく切岸状の段差に出会う。 「木須城よりは、ちょとマシそうだな。。。。。」 さらに登ると、確かに朽ち果てた石碑が目に付いた。 おそらくここが、掲載された縄張り図の場所である事は間違いない。 そこでサラッと、まわりを巡ってみたが_____________________ 東にもう一段、切岸状の物もあるのだが、かなり微妙な感じ。 またダメなのが、予想していたように南が開放してしまっている。 恐ろしく緩い斜面が続く。 つまりは、東西の尾根続きには切岸が一箇所づつ配置されているのみで、それ以外は全くの開放状態。 これでは、到底敵の侵入を防げない。 城の北方から責められることだけを意識したのだろうか・・・? 城主は南の緩傾斜の下の方に居たとか_____? 『木須城』よりは、よっぽど城の可能性は高い(そんな馬鹿高くもない)が、 不安を抱えさらに西に進む。 すると・・・・・ ”堀切だ!”と思いきや・・・なんだ、ただの切通し道だった。 しっかりした道で、今も使われているようだ。 ん?ちょっと待てよ。 そうすると、さっき ”切岸” と思っていた東西の段差は、 切通し道の朽ちた道跡???? やっぱ、城とするにはパンチが無さ過ぎる当所であった。 ◆那須の戦国時代より 確かに、先述の『那須の戦国時代』の縄張り図のように、主郭、副郭が見当たらない。 でも、 ・・・・・・もう、どうでもいいや。 主郭があったかどうだかも定かでないが、ユンボかなんかで潰されたんだろう。 今日の管理人はすこぶる気分が悪い。 (つづかない) |
大塚要害sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
これは随分壊されていると思う 2017/04/02 |
ここは、旧黒羽町中心部近くのコンビニ。 今日はいい天気。 すっかり春めいてきた。 大塚要害の外観である。 正面の林が城跡なのであるが、 左半分が畑になっているのがお分かりになろう 城に近づいてみる。 手前の畑は開墾されてしまっている。(下・縄張り図①) 遺構は、この奥、杉林の中にある。 |
【解説】 ◆大塚要害現地縄張り図 (歴史) 大塚要害の歴史は定かではないが、黒羽と伊王野、梁瀬要害を結ぶ街道沿いに有る。 街道監視のため築かれた可能性を示しておこう。 (縄張り) まず、言っておきたいのは、この城は相当破壊されている。 南半分が畑に変貌しているのだ。(縄張り図①周辺) 残存部から、大きな三つの郭があったようだが、どのような繋がりを持っていたかは想像できない。 旧状を見抜くことは難しい。 また、残存部分にも、城を貫くように道が作られていて、破壊も進んでいそうだ。 主郭内は林である。 もの凄い藪で、しかもタラの木が多いので、注意したい。 縄張り調査では、最悪の状態である。 左写真の虎口の様に見える開口は、主郭への入口。(縄張り図の②部分) おそらく近代の改変で、虎口状になっている。。。。 両脇には、小規模な土塁・空堀が残る。 主郭西には、もう一区画ある。 二の郭である。 写真は、その開口部。(縄張り図の③) ここもおそらく近代の改変であろう。 開口の両脇に堀・土塁が残っている。 主郭、二の郭の開口同士を結ぶ道である。(縄張り図の④) 城跡をまともに歩けるのは、この道のみである。 何度も言うが、両脇は激しい藪である。 管理人は、藪とタラの木と格闘しながら、縄張り図を描いた。 当然、藪の中は写真に全くならない。 よって、紹介できるのは、この写真五枚のみだ。 最後に。 遺構としては、かなり壊されている。 ネットで古写真検索も行ってみたが、城の南側は、かなり以前から畑となっていたようだ。 結局その全貌を知る由もなかった。 いったいどのような城であったのだろうか? (コンプリート) |
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【城の概要】
築城は那須与一の父の時代まで遡るというが、信憑性がないらしい。
現在は壊滅した那須氏の一族の河田氏の館跡が近くにあり、その城との関連が考えられるという。
つまりは、謎多き城である。
城域は公園となっており、見学しやすい。
縄張り図はここまでしかかけてないが、ご覧のような堀や土塁など無く、切岸もイマイチしっかりしてなさそうである。
とりあえず、今はここまで。