2016

 

さくら市2(氏家・喜連川) 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。


          

金枝城
①速報 ②概要  ④

冨士山城??? 追越城???


金枝城(城の位置)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

                  
【城の概要】

城は、那須氏によって築かれたとされる。
その縄張りは非常に技巧的で、栃木県内の城の中で、最も優れているといっても過言ではない。
そのような城が、なんの保護も受けず、ここまで残っているのは奇跡に近い。


 



①速報!こりゃぁ、只者ではない!県内で最も優れた縄張りか!2017/3/2


 金枝城の存在は前から知っていた。

 いつの頃だろう?この城には一度来たことがある。
 しかし、あまりの藪・・・というより、トゲだらけの太いイバラ?の群れに阻まれ、
 身の危険を感じて撤収した記憶がある。

 今回、改めて意を決して望んだのであるが、その遺構は、
素晴らしい の一言に尽きる。
 管理人は、愛知県の馬場信春の古宮城に来ているような、デジャブ(既視感)が起きた。

          

 今日まで2日掛けてこの城を見てきたが、非常に残念に思えたのが、参考にした喜連川町史。
 城は素晴らしいのであるが、この
町史の縄張り図は非常にまずい !

 縄張り図は、描き手の解釈や器量により、図面の違いは確かに生まれるのであるが、
 この図は、
曲輪の形や、解釈、はたまた繋がりが、まるで現地と違う。
 
              
「どうしてこうなっちゃうの?」 

 このような図面が、
 『町史』 として掲載されてしまうのは、いかがなものだろう?

 其の辺の批判と縄張り解説は、今後行なおう。

            
       
       


                                   
    (つづく)



概要2017/3/93/193/25(補正) ホントに凄いんです




               


 金枝城を見学するには、近くの県道脇に、ちょいと広い空間がある。
 当方は、車をここに止めさせていただいた。
 傍らに小さな双体道祖神があるが、お隣にちょいと失礼という感じ。

      

 
 この城に来たのは、計4回となった。
 思った以上に遺構があるので、苦戦している。
 

3月2日、第3回目の朝である。
時刻は7時半。

こんなに早く来たのは、この日で完成させるつもりだったからだ。(・・結局4回行ったが。。。)

今日はいい天気。
最近発症してしまった花粉症対策のため、マスクを装着しての登城である。

         

          


                この舌状台地の中に、こんなに素晴らしい遺構があるなんて、思ってもみなかった。
                 ◆城を東方向から望む





 
  【解説】   
             ◆金枝城浄書彩色図
          


    
金枝城は大きく5つの曲輪群に分けることが出来る。

主郭
二ノ郭(上段・下段)
三ノ郭
四ノ郭(上段・下段)
五ノ郭

と便宜上命名させていただき解説しよう。










     。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 






さて、管理人は城の北斜面から突入。

しばらくタラタラとした緩斜面を登ると
斜面角度が自然地形と異なる切岸が目に飛び込んでくる。








 この壁を超えると、迫力の空堀が私を迎える。

   

 


        しっかりした巨大な空堀だ。

            これだけの規模を掘る必要があるということは、この城がいかに重要な拠点だったかが伺える。

    




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  主郭周りの堀を超え、主郭内部に突入した。

 
主郭南辺のみ、高い土塁が施されている。
写真左は、矢倉台と思われ、ここから空堀方向に降りる道が確認できる。

土塁の先には、もう一つ切り込みがある。
ここは堀を隔てた対面側は高さが揃っているので、
木橋がかかっていた可能性がある。





 








    つまりは、堀底に降りる虎口と、堀に降りなくても対岸に渡れる虎口(木橋)が隣接していたと考える。
   木橋には、矢倉台からも横矢が掛かっている。
   堀底に降りる道が多いのは、那須氏の城の特徴だ。
   
     

    ◆主郭土塁
                           



  

実はこの土塁には、更にその先に、もう一つ浅い切り込みがある。
左の写真は、その切込部分を、堀側から望んだところ。
ここからも、堀の中に降りられるようになっていた可能性がある。

 

つまり、主郭南の土塁には、TOTAL3箇所の連絡口があったのだ。



   







       。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。    



 主郭の南側の堀である。
 この堀も深い。
 薬研堀だ。
 現在もかなり切込みが深い。

   

                                                
                                    主郭は、西半分が大きな横矢を形成している。
                                    その横矢部を望む。



    




        。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。    


  主郭の南には、台地上に続く曲輪がある。
  便宜上、二の郭と呼ぶ。
  この二ノ郭は、上段部と下段部に分かれている。





郭と、更にその南の三郭との間にも堀切がある。
ここにも木橋と、堀の中に降りる道があったように思われる
土塁の膨らみ部は、主郭と同じように、木橋がかかっていた可能性もある。







    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 三郭は、大きな出枡形門の曲輪である。
  
               

 写真は藪ばかりなので、一切役に立たない。
 しかし、実に見事な遺構である。
 曲輪の機能としては、巨大な2の郭への「馬出」ともとれる。

 三郭の南は、耕作地となっている。
 このため、堀の一部が削られてしまっていることは非常に残念だ。
 
 第4回目、3/25の調査で、この台地続きの山腹を歩いてみた。
 台地上は破壊されても、山腹には縦堀などの遺構がまだ残っている可能性があるからだ。
 しかし調査の結果、遺構らしきものは発見できなかった。  
 
 断言はできないが、金枝城の南限は
郭までで、良いのではなかろうか?

        。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 金枝の魅力は二郭、三郭だけではない。
 二の郭下段の西にも大きな曲輪群が広がる。
 便宜上、ここを四ノ郭としよう。



 


左の写真は、
郭、三郭間の堀切が縦堀となり、
90度曲がって、四郭との仕切りの空堀となった部分。











 
 さらに、その下。
 下の写真は、うまく撮れていないが、四郭(下段)と五郭の間の横堀だ。。
 
この城は竹林が多い。
しかも、放置された竹林。
よって、どこもかしこも、このような状況。

これが、調査の歩測を阻む。
バキバキ音を立て、前進するものの、
足を取られ、転倒。
おかげで、足は傷だらけだ。






   
         。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 下野国誌によれば、天文十八年(1549)に、喜連川 五月女坂で那須氏/宇都宮氏が合戦を行った。
 その戦いの中で、那須方に 『金枝近江守義高』 の名前が見える。
 おそらく金枝を治めていた人物と考えられるが故に、金枝城は那須氏系城郭と言われる。

 このホームページでも、幾つか那須氏系の城郭を紹介してきた。
 これらの城は、非常に縄張りが技巧的で、優れている。

 代表的なものに、烏山城や沢村城などがあげられるが、この金枝城も、それらに匹敵するほどの鋭い縄張りをしている。
 那須氏系の城つくりの特徴として、まず掲げられるのが、その土木量である。
 深い堀、高い切岸は、目を見張るものがある。
 
 城の構造についても、横矢、馬出し、枡形虎口などを多用する。
 何度か話したが、堀底道を使うことも特徴的だ。
 金枝は、そこからも那須氏の典型的な城と見て間違いなかろう。

 気になるのが二の郭から、西に下る山腹に曲輪が展開することだ。
 不思議に山ろくの遺構は、城の西側にしかない。
 東側は、敵を意識してなのか、堀と切岸で固めている。
 金枝の西方向は、喜連川塩谷氏の居城、喜連川城の方向である。

 もともと喜連川塩谷氏は、宇都宮氏系の氏族であり、那須氏とは敵対関係にあった。
 しかし、その家族構成の関係から、後は、那須方についたとされる。
 那須氏と喜連川塩谷氏が敵対しているとなれば、塩谷氏の居る方向に、金枝城の山麓曲輪を正面にするのはおかしなことになる。
 つまり金枝城は、喜連川塩谷氏が那須氏の配下になってから築かれた、と考えたほうが良かろう。





      。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。



  苦労して見学し終わったが、そのあとが大変なことになった。
  花粉症がMAXに達し、目はかゆいわ、鼻がつまるわ、声まで出なくなった。
  おまけにマスクしてるもんだから、息苦しいし、散々だ。

  でも、そんな体を押しても、この城を見に来る価値は大いにあると思う。


              


ダメでしょ!この縄張り図

 喜連川町史の金枝城の図面は、素晴らしい遺構の持ち主である当城の実態を世に送った物としては大変評価できるものだ。
 管理人も調査の参考にさせて頂いた。

 しかし、現地で調査を進めると、
”間違いが多過ぎる”
 確かに縄張り図は、人が調査するが故に、解釈やら、、曲輪の形が違ってしまったりするのは、やむを得ないところもある。
 ところが、この図は、
曲輪、土塁、堀のつながりがメチャクチャで、明らかな調査の欠落も見受けられる。
 
特に四ノ郭と三ノ郭の描写は完全に間違っている。
 ”町史” という立場の本に掲載しているのは、いかがなものであろう?

 他にも色々見落とし、間違い等がある。
 それらを一つ一つ解説をするとくどいので、指摘をまとめて下図で示しておこう。


 もちろん、当方の図面も正確とは決して言えないものである。
 しかし、 
町史の図面と比べれば、マシである。

 
 縄張り図は先行図があって、だんだん切磋琢磨して行くものだと思う。
 細かな解釈、曲輪の形。
 それは人それぞれで異なって仕方がない部分である。
 しかし、
この図面の一番まずいところは、 『図形学で言うところの ”位相が違ってる” 』所である。
 4郭、5郭の位置関係などは、顕著である。

 
 現在の町史管理元であるさくら市教育委員会に、手紙を出したので紹介する。(下に打ち上げメールを掲載)

                    

 
さくら市ミュージアム -荒井寛方記念館-様
 
突然失礼いたします。
宇都宮市在住のmasakiと申します。
市史編さん事業が、そちらに移られたということで、失礼ながらメールさせていただきました。
 
さて、当方、栃木県の城跡を調査し回っている者ですが、
平成20年に発刊の喜連川町史(第6巻 通史編1 原始・古代・中世・近世 第4章 喜連川の文化遺産 第一節 喜連川の城館  )
掲載の金枝城の縄張り図に大きな誤りや、見落としがあることが分かりましたので、ご連絡差し上げた次第です。
近年の町史では、かなり酷い間違いで、非常に残念です。
細かな所は、長くなるのでPPTにまとめました。
また、当方の調査図も加えました。
大したものではありませんが、喜連川町史のものよりは、全然マシな仕上がりになっていると思います。
 
金枝城は栃木県下の中でも、1、2位を争うような縄張りと残存状況だと当方は思っています。
今後のさくら市でクローズアップされるようなことがあれば、お役に立てるのかと、不躾ながらメールさせていただきました。
 
                                                            masaki
   

◆さくら市からの回答

  masaki 様

大変お世話になります。金枝城の縄張り図につきましてご指摘を頂きありがとうございました。
喜連川町史掲載の金枝城の縄張り図は担当者に調査、縄張り図の作成を依頼し、完成した縄張り図をそのまま掲載しております。
今後、城址の保存等でご指摘を役立てたいと思います。
直ぐの対応はできませんが、貴重なご指摘をありがとうございました。
どうか今後ともよろしくお願い申し上げます。

さくら市ミュージアム 
                             
    




『冨士山城???』(城の位置)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

ダメよ!こんなの城にしちゃあ!PART 1   2017/04/28ある

 



     
 まず、ひとこと言いたい

                
” ここは、城とは言えません。”







                   _________________________________

  今日は仕事を半ドンで切り上げた。
  まだ日が高いので、少し城を見に行くことに。。。。。

  こないだから金枝城の図面といい、葛城龍崖城といい、最近、信頼度がかなり落ちた喜連川町史。
  パラパラめくると、『冨士山城』『追越城』の名前が見えてくる。
  解説では、徳川軍の城????
  図面も怪しさが、かなり臭う。

  今回はどうだろうか・・・・・?

  とにかく、期待するのはやめよう。
  なにか春の野草を探す気持ちで出かけてみよう!

  そんな、お試し気分で来てみたのである・・・・・・・・・・




       


お目当ての場所は、あの送電線鉄塔のそばにあるらしい。。。

田んぼを超えて、赤い屋根のポンプ小屋横の道を辿れば行けるはずだ。、

春の陽気が心地よいが、ちょっと雲が気になる。




時刻は午後2時半になろうとしていた。。。。。。。。。。。。
 























                                 へ?

                           
だめでしょ!こんなの・・・・・






                   ?????????????????????????????????????




 
『喜連川町史』には、 
                                            
  管理人の心の声 (冷ややかにお読みください)

 
『城跡は通過する峠道の東に土塁で囲まれたⅠがあり、・・・・   ___これは、削り残しか、木でも抜いた跡でしょ。

  この土塁から道路に向かって斜面を土塁が下っている。・・・・   
___土塁じゃないよ、こんなの。単なる崩れだよ。

  道路の西には道路を俯瞰する平場が設けられており、・・・・   
___平場??どこが?これ、自然地形だよ。◆平場?

  この平場と道路の東側の土塁とで、道路を挟んでいる。』     
___たまたま、そう見えるだけ。


 実は、この遺構?のすぐそばには、送電線鉄塔が有る。
 よく観察すると、町史ご自慢の南の斜面土塁上には、
土嚢が積んである。
 周辺は、鉄塔建設のための造作か、自然崩落だろう。


 
『・・・この遺構は追越城と共に、関ヶ原合戦地点の徳川方の警戒陣地であった可能性がある』  

                                       
___これだけで、徳川軍がきたぁ?よくここまで言うよなぁ~。

  ◆写真の解説もしたくない。
   
 
                     

          ◆喜連川町史                             ◆筆者の見取り図
                     

 記述を見ると、城のロケーション以外、どうしてこの地を 『城』 と認めたかは書いていない。
 地名とか、伝承とか、はたまた地籍調査とか、その他バックデータがない。
 バックデータがない場所を”城”とする場合、遺構の存在が必須だ。
 遺構存在は、どんな専門家もうならせる大きな根拠になるからだ。

 しかし、ここにはそんなものは無い。
 おそらく私の城仲間達は、当地を
100パーセント城とは断言しないであろう
 そんな代物である。

 
 
どのような判断で、ここを城として掲載したのか?
 しかも、ご丁寧に図面までつけて。
 町史編纂者のセンスを疑う。
 
 だんだん腹が立ってきた・・・・・・

 


  ※当ホームページ本編に記載しておりますが、管理人が当地を ”城” と認めているわけではありません。
    お間違いなく。

                                 
(つづかない)





追越城???(城の位置)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
      

ダメだろ!こんなの城にしちゃあ!PART 2   2017/04/28

まず、ひとこと言いたい


                  
” ここ、城とは言えません。”




 上述、冨士山城?の次に続いて赴いたのが追越城?と言われる部分。


  冨士山城?の北西 約1000mのところにあるが・・・・・・









               へ?

                           
だめでしょ!これも





                        ???????????????????????????????????????????





残念なことに
(あんまり残念でもないのだが・・・)
ここも、思っていた通りの調査結果になってしまった。

町史で追越城?とする場所は、なだらかな丘陵上にある。
町史図面をみると、土塁囲みのような曲輪が記載されているが、
管理人には、とても”土塁”とは言い難い。

どう見ても、城のではなく、
切り出した木でも溜めて置く場所だった様に見える。

なんとなく周囲より窪んでいるのだが、
これを土塁として、城の遺構としてしまうのはいかがなものだろう?









 ◆内部写真  町史では左手の高まりを土塁としている             ◆「う~ん」と唸るまでもなく、管理人には土塁には全く見えない
 

 




         ◆喜連川町史                           ◆管理人調査図
              

 



 

町史記述を見ると、ここも城のロケーション以外、
どうしてこの地を 『城』 としたかは書いていない。
しかも、前回同様、『北の関ヶ原』関連の施設だという。
(おいおい、いい加減にしろよ。。。)


 帰る頃には、雷のなる夕立となってしまった。
 おまけに雹も降り出した。

    もう、散々だ!!

         「チッ!」

         ◆追跡戦闘車だけが、疲れた私を待っていてくれた。



     

    
この町史の発刊が平成20年。
    
これだけ間違いの多い調査、記述に対する批判等は、なかったのだろうか?
   誰も疑問に思わなかったのだろうか?
   そう考えると、”城館に対する世間の知名度は、まだまだ低い” と言わざるを得ない。

    



※当ホームページ本編に記載しておりますが、 管理人が当地を ”城” と認めているわけではありません。
 お間違いなくお願いします。
                                      
(つづかない)





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