2019

益子町  枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします

①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

石下城sk 小宅城sk  山居台城sk  富士山城sk 尾羽氏館??(一般呼称通り) 



石下城sk電子国土・位置のリンク


 copyright2005.masaki

【解説】
なんともいえないモヤッとした縄張りで、未成形部分が多い。

でも、横堀をかなり積極的に回している事から、臨時的な築城の匂いがする。





小宅城sk  電子国土・位置のリンク

                          
  

 凸形縄張りと、意図不明な主郭内堀   2016/3/6

  当ホームページ掲示板・ほーやんさんから

         
「益子町の小宅城の西側。沢を挟んだところですが、丘陵沿いに土塁や曲輪跡があります」

  という投稿があった。

  ところが、管理人は、益子町の城をほとんど見ていないのである。
  しかも、肝心の小宅城自体も未調査だ。

  最近 ”山城” 続きだった事もあり、久々に平地に近い小宅城に出かけ、ついでに掲示板情報を確かめることにした。


                   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  
  今回、小宅城を調査してみて、大きくわかったことが1つある。

  資料やWEBから、いくつか先学の小宅城の縄張り図を持って出かけたのだが、

                
 どれもこれも、まともじゃない・・・
  
という事実。

  私の描いた物は、いままでの図面とは、全く別の姿となったのである。
  
  
                
                 ◆管理人縄張り図
              


            
ひどい・・・・

       先学は、遺構の抜け漏れが多いし、きれいに残っている堀の迫力も伝わってこない。

       決して私の図面が完璧なものとは言わないが、ずっとマシである。
       先学の縄張り図が、まことしやかに 「小宅城」 の姿として世間にイメージされていたのなら、本当に小宅城がかわいそうだ。

       改めて、 ”すこしでも事実に近い姿を縄張り図にする事” が、管理人の使命なんだと痛感した。




 

 小宅城の懐に到着。
 小さな酒屋と、消防団の事務所が目印だ。



                           
 この横の道から城に入ることができる。
 写真の廃屋の裏が、小宅城である。

                     


 もちろん私有地と思われるので、一言お断りして中に入りたいのだが、誰も外に出ている人は居ない。
 仕方が無いので、勝手に山に入らせて頂いた。


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 余談であるが、実は、こういう時困る。

 管理人は私有地に入る時、わざわざ玄関先まで人を呼び出す事はいかがなものだろうか?と考えるようになった。
 城に入る許可を得る事は必要だとは思うが、忙しい時間に、迷惑と感じられるのではないかと思うのである。 
 しかも、管理人の経験では、「うちに言われても、この裏山は別の人の土地だし・・・」 という場合が結構多い。

 じゃあ、そこの地主をわざわざ探し出し、許可を得るのか?
 そういわれても、地主を探している時間ももったいない。
 地主が、 ”東京の人なんだよねー”  と言われたこともある。
 そんなときゃ、どーしよーもない。

 よって
 管理人は、
最低限のマナーとして、城のそばで外に出ている人に一声お断りしようと心がけている。

 それっぽい家を探して、忙しい時間に呼び鈴をならし、わざわざ玄関先まで出て来てもらう・・・・
 そのような行為は基本、辞めにした。

 経験上、見学中になにか言われたとしても、ちゃんと理由を話せば理解してもらえるからだ。
  

 
 【解説】

 では小宅城のすばらしい遺構を見てみよう。

                ◆小宅城彩色図
                    

 
 雑木林の中に入ると、見事なまでの堀が、私を迎えてくれた。

 横矢の効いた矢倉台横の堀は、最も掘り下げられていて、深いところで5~6,7m程はあろうか。

 下の写真は主郭 横矢部堀。
 自分で言うのもおかしいが、下の写真は非常に良く撮れていて、なんとも美しい


   


 
土塁を上がり、主格内部を覗き込む。

 すると不思議なのは、主郭内部に堀が見える。
 深さは、主郭外周の堀より深いくらいだ。

        

 しかし、これが意図不明なのである。
 単純な防御の堀とは言えないのである。
 堀ではなく、別の意図をもって築かれような気がする。

 では何か?・・・・倉庫か?虎口か?井戸などの給水施設だったのか?

 ・・・いくら考えてもわからない。


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 考えていても仕方がないので、外周の堀を巡ってみよう。

  主郭の東側の堀は、ゆっくりと南に下っている。
  途中、少々近代の破壊がある。


 
             



 

  東の堀のコーナー部分から西に向かう堀である。
  このコーナー部の北側は、現在竹林であるが、古い航空写真を見ると畑?かなにかで整地されていた。
  よって、コーナー部自体は、かつての道でえぐられ、壊れている。
           



  主郭の矢倉台下まで来た。
  言うまでもないが、張り出し部で直角に堀が折れている。
           




  上記を方向を変えて撮影した。
          




          




  この矢倉台近辺が、この城の最高所である。
  ここから、堀は微妙に図では表現できないくらいに南に下り出す。

          





 正面が矢倉台である。

          



 
   この城の最西の堀の最下部にある浅い堀である。
   破壊されていて、旧状は再現できないが、浅い堀が続いていたようである。
   この写真後ろには、急坂であるが、主郭への虎口が存在する。

          
             

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   外郭とでも言うべきか、主郭東にはもう一区画、曲輪が存在する。
   神社部分を頂点として、加工の甘い曲輪全体がゆっくりと南に下る。
   写真は、その外郭の浅い堀である。
          
 
   実は、この外郭外にも土塁?の痕跡が残るのであるが、それは近代の改変だと判断している。

      
  しかし、最外の堀の流れが、主郭、外郭含めて俯瞰してみると、凸文字形状になっている。
  左右対称の縄張りとなっている事も、規格性という面では、非常におもしろい。
                      


                              (小宅城 コンプリート)

 





山居台城sk  電子国土・位置のリンク


                      

無名の単郭城  2016/5/3

  
  5月連休も、こうも予定がないと、城に行くしかない。
  葉っぱや虫も出てきて、ちょっと躊躇してしまうところもあるが、暇つぶしに今度こそ、小さい城を探した。
  当方の益子町の城郭見学が進んでないこともあり 
余湖くんのお城のページを覗いてみると、この山居台城が手頃そうである。
  さっそく、出かけてみることに。。。。
  ここだったら、数時間で見れそうである。


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なにしろ、周囲には車を置くところがない。
仕方がないので、比較的広い農道の交差点に置かせてもらった。













城へは、
”余湖くんのお城のページ”で紹介されている道を選んだ。
大きな牛舎を横に見ながら、山に取り付くルートだ。




ちなみに城は、写真右手の少し低い山。
左の山ではありません。









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     道の入り口で、農作業をしているご婦人に城の事を伺った。

      
「こんなとこー城があるなんて聞いたこともねぇ。 大体”山居台”ちゅー地名は、ここじゃねぇ。 あっちだ!」

    と、遠くの山を指差した。
    衝撃的なことを言われたが、場所は間違いないので、とりあえず山へ入ることを了解いただき、登山開始。




    途中、大きな牛舎の横を通り過ぎる時にも、若い男性に遭遇。

     「すみません、城にきたんで、上の山に・・・・・・」
    声を掛けると間髪入れず、
     
「ワタシ、タイ人。 ニホンゴ ワカラナイ.」
    遠く、こんなところまで修行にきたのだろうか。
    ご苦労様です。
    そこで、 タイ語で 「カップ!」 と一言、ご挨拶。
    若い男性は、非常に嬉しそうに手を振ってくれた。

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男性と別れ、この写真牛舎の右側から山に取り付く。

途中、一つ分かれ道があるが、地図を見ていれば迷わない。

















 



しばらく登ると、写真の切通しにつく。
緑のフェンスが目印。

ここから右手、フェンス方向に登れば城跡だ。
          

ここも堀と考えられるが、写真右手の壁は、
明らかに後世に切り崩されているのが分かる。
ちょっと、微妙である。













 
 【解説】


    この城の歴史は全くわからないそうだが、遺構は割と明確である。
    では、さっそく遺構の解説に移ろう。

                     ◆現地縄張り図
                     





      
最初の遺構は、この堀である。
      主郭の南側に当たる。
      堀切というよりも、横堀と言ってよかろう。
      写真ではわかりづらいが、深さ、1mほどある。                                   ※図は下が北
      当然、写真右手が主郭になる。                         

      
    




     
この堀を、主郭虎口?上から見たところである。
       

      





主郭の切岸は割としっかりしている。
   内部には、はっきりしない段が二段ある。


写真は、主郭の壁。
左手は、はっきりしない主郭の段。













主郭の北には、やはり堀がある。
こちらは、かなり埋まっているようで、非常に浅い。
普通の人は気づかないだろう。

















      
北側の堀のパノラマ写真である。
      この堀は、「堀切」と呼んで良いかもしれない。
      両サイドが微妙に縦堀状になっている。
      
       




     さて、問題なのが、北の堀切の北方である。
     幅の広い尾根に、加工が施してある。
     
     一つ目は、後世の改変かな?とも思える、幅1.5mほどの道状の遺構。
     ただ、道にしては、まわりに続かない。
     また、ちょうどここから広い尾根が二分れしていく。
     よって、管理人は、尾根が一つにまとまるところの監視遺構と判断した。 
     縄張り図に取り入れた。
                    





     
そして、もう一つは、下写真の切岸。
     上記の道状遺構から分かれる尾根上に忽然と現れる。
     ただし、前面に堀などなく、ただの切岸である。
     ここも、まわりに似たような遺構が見当たらないため、当城の遺構と捕らまえている。
             
             




    
切岸はしっかりしていて、明らかに人工物である。












   

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      帰りしなの風景。
      なんとも、のんびりした感じが心地よい。
      遠く、わたしの車も見える。
      じゃあ、帰ろうか。
                


                               (山居台城 コンプリート)




富士山城sk  電子国土・位置のリンク


                      

無名の単郭城 第3弾 2016/4/16

  

  4月も半ばとなった。
  早くしないと葉っぱや虫も出てくる。
  暇つぶしに今度こそ、小さい城を探した。
  今回も 
余湖くんのお城のページを参考に、この富士山城に行ってみた。
  
  ちなみに、この城の歴史は不明である

  

  
  

富士山を望む。

車は置くところも無く、山の傍らに置かせてもらった。


 







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               ◆現地縄張り図
                      


 
 【解説】
                       








山に上がると、藪だらけ。
調査は難航を極める。
写真ではこんなもんだが、実際はもっと激しい。

単郭であるが、広さは結構あるのがこの城の特徴。
主郭内部は未加工部分が多い。

ただし、主郭を囲む切岸は、しっかりしている。














その藪の中を七転八倒。

なんとか、写真ぽく撮れたのがこの虎口。

















わかりづらいだろうが、虎口には横矢が掛かる。
(崩れかもしれないが)













 
虎口は、もう一箇所、南辺にある。
主郭側には、これを狙うような薄らと土塁痕がある。
しかし、上手く写真にならない。
その横に土が削り取られた、枡形門のような空間があるが、
この虎口とうまく構造が結び付けられない。
          











主郭を巡る帯状の曲輪。

おそらく、かつては空堀だろう。

この城は、主郭のほぼ全域を空堀で巡らせていたようだ。











 しかし、益子町の山城には、石下といい、山居台といい、そしてこの富士山と、ダラっとした単郭のゾウリムシ形状の城が多い。

 私はこの地域のパターンを、”益子のゾウリムシ城郭群”と名付けたい(笑)。
   



                                        (富士山城 完了)    




尾羽氏館??』sk (一般呼称どおり) 電子国土・位置のリンク


                      

違うでしょ、ここ?? 2017/05/06
 
 【解説】
 
  午後からの活動になったため、
  
  『平城に近い所にでも行くか・・・』 

  最近、葉っぱや虫もやたら多くなってきた。
  虫の少なそうな所にしたいな。。。。

  ということで、
余湖くんのお城のページを参考に、ここ 尾羽氏館?? に行ってみた。

      ◆山門                             ◆本堂
       




  余湖くんのホームページでは、地蔵院の地を尾羽氏の城跡ではないかと想定している。
  よって当方も、この地の現地調査をさせていただいた。

  幸い調査中、地蔵院のご婦人とお話ができたので、色々とお話を伺うことができた。
  すると、
  ・ この地蔵院は、もっと北方にあった物を、数十年前に現在の地に移動させてきた。
  ・ ここを城跡、館跡だったという話は、今まで全く聞いた覚えがない

  という。

  たしかに、地蔵院のある平地は、明らかに山の斜面を切り開いてできたようだ。
  造成されたと思われる崖が、随所に見られる。 


      
 ①                   ②                  ③
      


  いろいろ観察した結果、
  管理人としては、当地に城郭遺構は無い(または破壊されている)と判断した。
  現在の周囲の地形の凹凸は、城の遺構とは程遠い。
  よって、城とは断定できない。

  
  参考に、下に見取り図を描いてみた。    

                  ◆地蔵院周辺見取り図
                




  
  
ちなみに、城の別比定地として、地蔵院裏手の大倉神社、綱神社付近がある。
  当地には、趣のある立派な社殿があるが、観察した結果、城の要素となる遺構は皆無だ。

 
       ④                     ⑤
            

  

  さらに、綱神社の背後の山に、堀切遺構があるという話も聞いた。
  幸い、ハイキングコースとなっているので、登ってみた。

  だらだらの長い峯が続き、ハイキングコース以外もウロウロ歩いてみたが、全く遺構は見つけられない。(地図内
赤い範囲)

  
                

               

 

  帰りに、宇都宮氏累代の墓所にお参りし、帰途についた。

      
     
 

  
尾羽氏館??は、いったいどこにあったのだろうか?






                それにしても・・・
                         
あー、つまんなかった!!




                                    (終わってないけど、終了)







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