2019
益子町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
石下城sk | 小宅城sk | 山居台城sk | 富士山城sk | 尾羽氏館??(一般呼称通り) |
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【解説】 |
凸形縄張りと、意図不明な主郭内堀 2016/3/6 |
当ホームページ掲示板・ほーやんさんから 「益子町の小宅城の西側。沢を挟んだところですが、丘陵沿いに土塁や曲輪跡があります」 という投稿があった。 ところが、管理人は、益子町の城をほとんど見ていないのである。 しかも、肝心の小宅城自体も未調査だ。 最近 ”山城” 続きだった事もあり、久々に平地に近い小宅城に出かけ、ついでに掲示板情報を確かめることにした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今回、小宅城を調査してみて、大きくわかったことが1つある。 資料やWEBから、いくつか先学の小宅城の縄張り図を持って出かけたのだが、 ”どれもこれも、まともじゃない・・・” という事実。 私の描いた物は、いままでの図面とは、全く別の姿となったのである。 ◆管理人縄張り図 ひどい・・・・ 先学は、遺構の抜け漏れが多いし、きれいに残っている堀の迫力も伝わってこない。 決して私の図面が完璧なものとは言わないが、ずっとマシである。 先学の縄張り図が、まことしやかに 「小宅城」 の姿として世間にイメージされていたのなら、本当に小宅城がかわいそうだ。 改めて、 ”すこしでも事実に近い姿を縄張り図にする事” が、管理人の使命なんだと痛感した。 |
小宅城の懐に到着。 小さな酒屋と、消防団の事務所が目印だ。 この横の道から城に入ることができる。 写真の廃屋の裏が、小宅城である。 もちろん私有地と思われるので、一言お断りして中に入りたいのだが、誰も外に出ている人は居ない。 仕方が無いので、勝手に山に入らせて頂いた。 ________________________________________________________ 余談であるが、実は、こういう時困る。 管理人は私有地に入る時、わざわざ玄関先まで人を呼び出す事はいかがなものだろうか?と考えるようになった。 城に入る許可を得る事は必要だとは思うが、忙しい時間に、迷惑と感じられるのではないかと思うのである。 しかも、管理人の経験では、「うちに言われても、この裏山は別の人の土地だし・・・」 という場合が結構多い。 じゃあ、そこの地主をわざわざ探し出し、許可を得るのか? そういわれても、地主を探している時間ももったいない。 地主が、 ”東京の人なんだよねー” と言われたこともある。 そんなときゃ、どーしよーもない。 よって 管理人は、最低限のマナーとして、城のそばで外に出ている人に一声お断りしようと心がけている。 それっぽい家を探して、忙しい時間に呼び鈴をならし、わざわざ玄関先まで出て来てもらう・・・・ そのような行為は基本、辞めにした。 経験上、見学中になにか言われたとしても、ちゃんと理由を話せば理解してもらえるからだ。 |
【解説】 では小宅城のすばらしい遺構を見てみよう。 ◆小宅城彩色図 雑木林の中に入ると、見事なまでの堀が、私を迎えてくれた。 横矢の効いた矢倉台横の堀は、最も掘り下げられていて、深いところで5~6,7m程はあろうか。 下の写真は主郭 横矢部堀。 自分で言うのもおかしいが、下の写真は非常に良く撮れていて、なんとも美しい 土塁を上がり、主格内部を覗き込む。 すると不思議なのは、主郭内部に堀が見える。 深さは、主郭外周の堀より深いくらいだ。 しかし、これが意図不明なのである。 単純な防御の堀とは言えないのである。 堀ではなく、別の意図をもって築かれような気がする。 では何か?・・・・倉庫か?虎口か?井戸などの給水施設だったのか? ・・・いくら考えてもわからない。 _________________________________________________________ 考えていても仕方がないので、外周の堀を巡ってみよう。 主郭の東側の堀は、ゆっくりと南に下っている。 途中、少々近代の破壊がある。 東の堀のコーナー部分から西に向かう堀である。 このコーナー部の北側は、現在竹林であるが、古い航空写真を見ると畑?かなにかで整地されていた。 よって、コーナー部自体は、かつての道でえぐられ、壊れている。 主郭の矢倉台下まで来た。 言うまでもないが、張り出し部で直角に堀が折れている。 上記を方向を変えて撮影した。 この矢倉台近辺が、この城の最高所である。 ここから、堀は微妙に図では表現できないくらいに南に下り出す。 正面が矢倉台である。 この城の最西の堀の最下部にある浅い堀である。 破壊されていて、旧状は再現できないが、浅い堀が続いていたようである。 この写真後ろには、急坂であるが、主郭への虎口が存在する。 ______________________________________________ 外郭とでも言うべきか、主郭東にはもう一区画、曲輪が存在する。 神社部分を頂点として、加工の甘い曲輪全体がゆっくりと南に下る。 写真は、その外郭の浅い堀である。 実は、この外郭外にも土塁?の痕跡が残るのであるが、それは近代の改変だと判断している。 しかし、最外の堀の流れが、主郭、外郭含めて俯瞰してみると、凸文字形状になっている。 左右対称の縄張りとなっている事も、規格性という面では、非常におもしろい。 (小宅城 コンプリート) |
無名の単郭城 2016/5/3 |
5月連休も、こうも予定がないと、城に行くしかない。 葉っぱや虫も出てきて、ちょっと躊躇してしまうところもあるが、暇つぶしに今度こそ、小さい城を探した。 当方の益子町の城郭見学が進んでないこともあり 余湖くんのお城のページを覗いてみると、この山居台城が手頃そうである。 さっそく、出かけてみることに。。。。 ここだったら、数時間で見れそうである。 ______________________________________________ なにしろ、周囲には車を置くところがない。 仕方がないので、比較的広い農道の交差点に置かせてもらった。 城へは、 ”余湖くんのお城のページ”で紹介されている道を選んだ。 大きな牛舎を横に見ながら、山に取り付くルートだ。 ちなみに城は、写真右手の少し低い山。 左の山ではありません。 ______________________________________________ 道の入り口で、農作業をしているご婦人に城の事を伺った。 「こんなとこー城があるなんて聞いたこともねぇ。 大体”山居台”ちゅー地名は、ここじゃねぇ。 あっちだ!」 と、遠くの山を指差した。 衝撃的なことを言われたが、場所は間違いないので、とりあえず山へ入ることを了解いただき、登山開始。 途中、大きな牛舎の横を通り過ぎる時にも、若い男性に遭遇。 「すみません、城にきたんで、上の山に・・・・・・」 声を掛けると間髪入れず、 「ワタシ、タイ人。 ニホンゴ ワカラナイ.」 遠く、こんなところまで修行にきたのだろうか。 ご苦労様です。 そこで、 タイ語で 「カップ!」 と一言、ご挨拶。 若い男性は、非常に嬉しそうに手を振ってくれた。 ______________________________________________ 男性と別れ、この写真牛舎の右側から山に取り付く。 途中、一つ分かれ道があるが、地図を見ていれば迷わない。 しばらく登ると、写真の切通しにつく。 緑のフェンスが目印。 ここから右手、フェンス方向に登れば城跡だ。 ここも堀と考えられるが、写真右手の壁は、 明らかに後世に切り崩されているのが分かる。 ちょっと、微妙である。 |
【解説】 この城の歴史は全くわからないそうだが、遺構は割と明確である。 では、さっそく遺構の解説に移ろう。 ◆現地縄張り図 ①最初の遺構は、この堀である。 主郭の南側に当たる。 堀切というよりも、横堀と言ってよかろう。 写真ではわかりづらいが、深さ、1mほどある。 ※図は下が北 当然、写真右手が主郭になる。 ②この堀を、主郭虎口?上から見たところである。 ③主郭の切岸は割としっかりしている。 内部には、はっきりしない段が二段ある。 写真は、主郭の壁。 左手は、はっきりしない主郭の段。 ④主郭の北には、やはり堀がある。 こちらは、かなり埋まっているようで、非常に浅い。 普通の人は気づかないだろう。 ⑤北側の堀のパノラマ写真である。 この堀は、「堀切」と呼んで良いかもしれない。 両サイドが微妙に縦堀状になっている。 さて、問題なのが、北の堀切の北方である。 幅の広い尾根に、加工が施してある。 一つ目は、後世の改変かな?とも思える、幅1.5mほどの道状の遺構。 ただ、道にしては、まわりに続かない。 また、ちょうどここから広い尾根が二分れしていく。 よって、管理人は、尾根が一つにまとまるところの監視遺構と判断した。 縄張り図に取り入れた。 ⑥そして、もう一つは、下写真の切岸。 上記の道状遺構から分かれる尾根上に忽然と現れる。 ただし、前面に堀などなく、ただの切岸である。 ここも、まわりに似たような遺構が見当たらないため、当城の遺構と捕らまえている。 ⑦切岸はしっかりしていて、明らかに人工物である。 ______________________________________________ 帰りしなの風景。 なんとも、のんびりした感じが心地よい。 遠く、わたしの車も見える。 じゃあ、帰ろうか。 (山居台城 コンプリート) |
無名の単郭城 第3弾 2016/4/16 |
4月も半ばとなった。 早くしないと葉っぱや虫も出てくる。 暇つぶしに今度こそ、小さい城を探した。 今回も 余湖くんのお城のページを参考に、この富士山城に行ってみた。 ちなみに、この城の歴史は不明である。 富士山を望む。 車は置くところも無く、山の傍らに置かせてもらった。 ______________________________________________ ◆現地縄張り図 |
【解説】 山に上がると、藪だらけ。 調査は難航を極める。 写真ではこんなもんだが、実際はもっと激しい。 単郭であるが、広さは結構あるのがこの城の特徴。 主郭内部は未加工部分が多い。 ただし、主郭を囲む切岸は、しっかりしている。 その藪の中を七転八倒。 なんとか、写真ぽく撮れたのがこの虎口。 わかりづらいだろうが、虎口には横矢が掛かる。 (崩れかもしれないが) 虎口は、もう一箇所、南辺にある。 主郭側には、これを狙うような薄らと土塁痕がある。 しかし、上手く写真にならない。 その横に土が削り取られた、枡形門のような空間があるが、 この虎口とうまく構造が結び付けられない。 主郭を巡る帯状の曲輪。 おそらく、かつては空堀だろう。 この城は、主郭のほぼ全域を空堀で巡らせていたようだ。 しかし、益子町の山城には、石下といい、山居台といい、そしてこの富士山と、ダラっとした単郭のゾウリムシ形状の城が多い。 私はこの地域のパターンを、”益子のゾウリムシ城郭群”と名付けたい(笑)。 (富士山城 完了) |
『尾羽氏館??』sk (一般呼称どおり) 電子国土・位置のリンク
違うでしょ、ここ?? 2017/05/06 |
【解説】 午後からの活動になったため、 『平城に近い所にでも行くか・・・』 最近、葉っぱや虫もやたら多くなってきた。 虫の少なそうな所にしたいな。。。。 ということで、余湖くんのお城のページを参考に、ここ 尾羽氏館?? に行ってみた。 ◆山門 ◆本堂 余湖くんのホームページでは、地蔵院の地を尾羽氏の城跡ではないかと想定している。 よって当方も、この地の現地調査をさせていただいた。 幸い調査中、地蔵院のご婦人とお話ができたので、色々とお話を伺うことができた。 すると、 ・ この地蔵院は、もっと北方にあった物を、数十年前に現在の地に移動させてきた。 ・ ここを城跡、館跡だったという話は、今まで全く聞いた覚えがない という。 たしかに、地蔵院のある平地は、明らかに山の斜面を切り開いてできたようだ。 造成されたと思われる崖が、随所に見られる。 ① ② ③ いろいろ観察した結果、 管理人としては、当地に城郭遺構は無い(または破壊されている)と判断した。 現在の周囲の地形の凹凸は、城の遺構とは程遠い。 よって、城とは断定できない。 参考に、下に見取り図を描いてみた。 ◆地蔵院周辺見取り図 ちなみに、城の別比定地として、地蔵院裏手の大倉神社、綱神社付近がある。 当地には、趣のある立派な社殿があるが、観察した結果、城の要素となる遺構は皆無だ。 ④ ⑤ さらに、綱神社の背後の山に、堀切遺構があるという話も聞いた。 幸い、ハイキングコースとなっているので、登ってみた。 だらだらの長い峯が続き、ハイキングコース以外もウロウロ歩いてみたが、全く遺構は見つけられない。(地図内赤い範囲) 帰りに、宇都宮氏累代の墓所にお参りし、帰途についた。 ⑥ 尾羽氏館??は、いったいどこにあったのだろうか? それにしても・・・ あー、つまんなかった!! (終わってないけど、終了) |