2019



那珂川町 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします  

①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある

  

松野南城sk 片平本城sk  大久保城sk




松野南城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

【城の概要】
佐竹の属城、松野氏の居城。
両側の尾根で谷を挟み込み、その中に給水施設を伴った面白い作りである。



    ◆松野南城彩色図
    

    

松野南城まとめ 2016/09/03 公開
  
 
 
さて、彩色図面も完成したので、いままでの遺構の紹介をまとめてみたい。
 



左写真は主郭北の縦堀を上から望んだところ











主郭北の堀切内部。








 
主郭南側は木橋が掛かっていたと考えられる。
 写真はその虎口。

 
                  
 



上記虎口から、主郭を望む
      


  主郭より南に向かう。
  3本堀切を越えると再び大きな曲輪に遭遇する。

  


ここも、対岸と橋で結ばれていたのだろう。
この城では珍しく、しっかりとした切岸だ。
対岸は尾根を切り刻み、入口を狭くしている。





  

さらにその先の堀切。
右手が上位の曲輪である。

 
 





さらに南の堀切。。
写真に撮ると、堀切の迫力が半減してしまう。
何故だろう。。。。



 
  図を見ていただくとわかるのだが、この城の構造は面白い。
  主郭から南北に堀切で仕切る主峯(主郭峯と呼ばせていただこう)に対し、
  それに沿うように、西側に、もう一本の派生する細長い尾根(図では下側)が走っている。
  よって、主郭峯ともう一本の尾根との間に、小さな細長い谷ができている。
  ここに、段々の曲輪群が形成されており、高所にも関わらず小川が流れている。
  この城の給水施設として、設計上、取り入れられたと考えられる。

       




  
そして、派生する細長い尾根の北側には、主郭峯とは異なる尾根が、さらに北に延びる。
  曲輪の造作はないのだが、堀切と縦堀が二本、現存する。

       
      
  
下の写真ではわかりづらいと思うが、その尾根先端縦堀である。
  明らかに、人工の手が加えられており、敵が尾根に取り付くのを嫌っている。
  主郭峯側にもほぼ同位置に、大きな堀切が施されていることから、
  よっぽど、この方面からの敵の侵入を阻止したかったのだろう。
  結局、この縦堀は、ほとんど麓まで続いていた。

          ◆尾根先端の縦堀

          
          

                       

 
◆縦堀を真下から見上げる。






                 
             

 さて、この城の防御の方向を考えてみよう。
 まず言えるのは、明らかに北方向を警戒していることだ。
 前述の縦堀、そして主郭最北部2箇所の堀切・縦堀は峯続きのところもあるが、最も大規模、大胆なのである。
 また、主郭峯と管理人が称した峯上は、何本もの堀切を入れ、切り刻んでいる。

                 





 それに対し、主格峯の反対側に派生する尾根は様相が異なる。
 ダランとしたその山容は、自然地形に近い。
 中間に堀切のようなものもあるが、縦堀がはっきり伴わないので、作業道の可能性もある。
 よって、管理人は ”この尾根に対しての普請はほとんどされていない” と考えた。

     


 また、その峯間にある段々畑状の曲輪は、主郭峯に隠れるよう配置されている。
 段々畑の下には小川が流れており、これを取り込んでいる。
 ここは両サイドの尾根が風も防いでくれる。
 これらの事実から、おそらく城としての居住空間は、この段々の曲輪群であったろうと想像している。


 以上のことから、
この城の最重要な防御方向は、北方と東面となる。
 

    

 北方や東面は、関連施設松野北城もあるにも関わらず、これだけ警戒色が強いということは、
 よほど気になる勢力がいたと考えられる。
 城間川を伝ってやってくる敵を、非常に恐れているようにも見える。
 南城だけでは事足らず、北城と挟み撃ちにしている。

 逆に南面、西面は手薄な感じが否めない。
 西側が手薄なのは、城下には那珂川や台城もあるからと説明することもできるかもしれない。


    ◆国土地理院より


要するに、
感覚的にこの城は南方面については開放的といえよう。

南城がこの様な縄張りになった背景には、
松野氏が佐竹氏に最終段階、従っていたからだと言えそうだ。
佐竹氏は、松野城の南方に本拠地を持っていたからだ。



しかしその関係もあってか、
関ヶ原後、佐竹氏が秋田に転封された時、
松野氏もここを廃城し、それに従ったという。









                         (松野南コンプリート) 




第1回 また、手出しちゃった 2016/4/23 AM10:00~PM2:00 公開
  
 今日は天気もイマイチだが、余りにも暇だ。

            ”最近、一日で終えられる城に行ってないし、出かけるか!”

 と言って、出かけたのが松野南城。
 大して大きくなさそうだから、すぐ終わるだろう・・・・・・・ と、思っていたが、考えが浅はかだった。



                     
・・・・きょ巨大である。
                     この城。
                     松野北城とわけが違いそうだ。
  



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  車車は、武茂小学校の入り口、二荒山神社の道路脇に小スペースがあるので、普段ならそこにおける。
   でも、今日はよりによって電気工事の車でいっぱい!(汗・・)

   仕方がないので、道路から細い路地に入り、武茂小学校の体育館前に置かせてもらった。

   
   んっつ?  どうやら、現在は廃校になってしまったらしい。どうも、

     


                     


    

          

  城の入口は、この二荒山神社。

  直登の参道をあがる。

  城へは、この神社裏手の道を進めば自動的に主郭に行ける。

 
        







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    さて、本日の成果は以下である。
    遺構は極めて大ぶり。
    でかい割には、切岸の壁があまりしっかりしていないので、形がつかみづらい。

                      


 

               部分的だが、遺構を紹介しよう。
   






左写真は主郭北の縦堀を上から望んだところ
















主郭北の堀切部分。














 の虎口は、対岸と木橋と考えれる。

 



の虎口から、主郭を望む
                 


       うまい写真が撮れないので、遺構の紹介はここまで。
       遺構は大ぶりで、結構城域は広そうだ。
       一日でやりきるつもりで出かけてきたが、また大きな城に手を出してしまったようだ。

       あと、2日は来ないと全部かけないような気がする・・・・・・。




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  (追記)
   当城の入り口、二荒山神社の麓にはニリンソウの群落がある。
   ナカナカ、ここまでまとまって咲いている場所はない。

          



 

      






第2回 まだまだ 2016/4/29 AM 9:00~PM12:30 公開
  
 昨日の人間ドックで、高脂血症の判定が ”C” と出てしまった私。
 まずいぃ・・・運動して悪玉菌をなくさなきゃ!

 ということで、出かけた私だが、今晩は飲み会!
 せっかく悪玉菌減らしても、また夜増える。。。。。 ま、いっか!連休だし!

                   ◆今日の成果(
赤枠内
                 

 今日は、主郭から南北に堀切で仕切る主峯(主郭峯と呼ばせていただこう)を見た。

 堀切できっちり仕切るこの構造は、見学するにも小気味よい。

        
   
の曲輪。
   この城では珍しく、しっかりとした切岸である。
   この先は堀切になっている。


  



の堀切。

右手が上位の曲輪。
 
 













の堀切。
写真に撮ると、堀切の迫力が半減してしまう。
何故だろう。。。。













                                 
(つづく)



第3回 完成。 2016/5/2 AM 9:00~PM2:00 公開
  
 今日で、3回目だ。
 いい加減に終わりにしないと・・・と感じつつ、再び山に登った。
 今回のお題は、北の遺構の未調査部、そして細長い谷内の調査である。
 
  図を見ていただくとわかるのだが、この城の構造は面白い。
  主郭から南北に堀切で仕切る主峯(主郭峯と呼ばせていただこう)に対し、
  それに沿うように、西側に、もう一本の派生する細長い尾根が走っている。
  よって、主郭峯ともう一本の尾根との間に、小さな細長い谷ができている。
  ここに、段々の曲輪群が形成されており、高所にも関わらず小川が流れている。
  この城の給水施設として、設計上、取り入れられたと考えられる。
  

  そして、派生する細長い尾根の北側には、主郭峯とは異なる尾根が、さらに北に延びる。
  曲輪の造作はないのだが、堀切と縦堀が二本、現存する。
      
      


  写真ではわかりづらいと思うが、その尾根先端縦堀である。
  明らかに、人工の手が加えられており、敵が尾根に取り付くのを嫌っている。
  主郭峯側にもほぼ同位置に、大きな堀切が施されていることから、よっぽど、この方面からの敵の侵入を阻止したかったのだろう。
  結局、この縦堀は、ほとんど麓まで続いていた。

            ◆尾根先端の縦堀
          

                       

 
◆縦堀を真下から見上げる。















                        残りは、浄書のみだ。公開は、後日!
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麓のニリンソウを見に行った。

花は、とうに盛りを過ぎてしまっていた。
また、来年だね。










 その近くで、オドリコソウを見つけた。
 ほんと、笠をかぶり着物で踊る、踊り子に見えるから、自然の造形は不思議だ。

  白い踊り子                                 ピンクの踊り子
 

                              (第三回 おわり)








片平(本)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

【城の概要】
那須方の城というが、その縄張りはかなりクセがある。
那須氏の城は、沢村、烏山のように近隣の城は非常に手の込んだ物が多い。
しかし、ここは曲輪はほとんど未加工である。
おそらく主郭以外、整地はしていなだろう。

でも、よく観察してみると、その堀の配置が凄いことになっている。
縦横無尽に山を巡る姿は、またまたちょっと違う那須氏のパターンと言えるのだろうか?
 
 

中途半端なんだけど、ハンパない城 2017/03/04 公開
  
 片平城は、曲輪内の整形をほとんどしていない。
 しかし、その無整形の空間を、縦横無尽に切岸、土塁、空堀が囲んでいる。
 曲輪内を真剣に加工したと思われるのは、おそらく主郭のみであろう。

 

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 車は、城の麓、常円寺の駐車場に留めさせて頂く。
 広い駐車場で、大きなイベントが無い限り、調査の間の駐車は心配しなくて良い。

 今日は非常に天気がよい。

 花粉がいっぱい飛んでいそうだ。

               
         ◆駐車場                              ◆駐車場所から城跡を望む




 


常円寺は町の指定文化財となっている。





















      

寺の脇の林道沿いに、『片平”本”城』 の案内板がある。

”本城” と言っているということは、ここ以外に片平の『支城』があるということなのか?
その真意は不明だ。


















    

       
       


その標柱を横目で見ながら進むと、谷の中に溜池がある。
近年に作られたものと思われ、水の量は豊富だ。

池の堤防を山方向に進むと、 ”片平城跡入口” の標柱が草に埋もれている。
         


           




     
     ________________________________________________


           
        ◆片平
(本)城 現地縄張り図
       



 
【解説】


   


                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





城跡への道は、整備されているようでされていない。
荒々の道をしばらく行くと、堀が出てきた!


この城は竹林だったらしく、歩きづらい。
竹に阻まれ、まともな写真が撮れない。


    




          その中で唯一写真でまともなのがこれ。
          最東面の切岸と横堀部分である。

   




 

その接続部の堀である。
しかし、写真がホントうまく撮れない。






                        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





片平城は那須氏の一族・片平氏の城である。
しかし管見の限り、今までの那須氏の縄張りパターンとは異なると思う。
曲輪の未加工部分が多いのは、あまり那須氏らしくないのである。

私見では、那須氏の城は非常にカッチリ土塁、堀を築くのが特徴だ。
代表的なものに、烏山城や、沢山城などがあるが、
この城とは全然雰囲気が違うのである。


それは、堀の存在である。
その執拗なほどの堀配置は、とてもこだわりがあるように思える。

 

 
 そこで、もう一度縄張り図を使って、少し解析をしてみた。

 条件として、
 1、帯状の曲輪になっているところは、かつてはすべて堀であったと考える。

 2、主郭周りも、かなり埋もれてしまっているが、全周堀であったとする。

 そうすると、図面のように
        
全方位で2つ以上の堀を超えないと、主郭にたどり着けない様になっているではないか!

               

   曲輪が未加工である代わりに、城を守るために、堀の配置が全方位で考慮されていたのだ。

                         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   縄張り図を完成させるのに、結局2日間、この城に来てしまった。
   昔はこの規模の城なら、一日で描けたのになぁ。。。。。



                           ( 片平城 コンプリート) 






大久保城sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

怪しい、単郭城郭 2017/04/23 公開
  
 



 大久保城は,、片平城の南東、約2kmほどの地にある。
 ここへ行くには、この白久神社を目指そう。
 車は、神社参拝用の空間に留めさせていただいた。

 





 




  

神社裏には奥の院に向かう道がのびている。
管理人はここを登り、稜線を



少し東に回り込む形で
大久保城にアプローチした。











                           ◆現地縄張り図  
                     

                 


 

 【解説】

                

 



稜線を歩いてくると、はっきりとした主郭切岸が見えてくる。


      








非常に薮が多く、いい写真が撮れない。

やっとの思いで撮ったのかこの写真。

主郭の堀である。









主郭は単郭で、縄張り図描き泣かせの楕円形。
左写真は、北側の堀。
かなり浅い。

    






主郭外にも曲輪がありそうな気がするが、
写真のように段差はあるものの
自然地形なんだろなーって、感じ。

   




 やっぱり、この城は単郭だ。

 大久保城は那須氏系の城ということだが、
 ここも、片平城と同じく、那須氏の特徴である横矢や枡形などが流用されていない。
 戦闘だけのためなのか、戦闘&居住を意識しているのか、よくわからない城であった。 



                                              (コンプリート)





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