2019
日光市 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
浅間山城sk | 和泉城??sk |
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温泉街の城郭 2017/4/22 公開 |
本ホームページのお客様・しぼれさんからの情報で、川治温泉にお城のような場所があるという。 管見の限り、ここを城と示す資料は無い。(どこかにあるのかも知らんが・・・・) いただいた情報写真を見ると、これがなかなかのもので、居ても立ってもいられなくなった。 管理人は早速現地に飛んだ。 場所は川治温泉街のど真ん中。 お城マークのある「浅間山」がターゲットだ ◆電子国土より 現地に着いた。 目の前に、戦艦のように見える小丘がそびえる。 温泉街の割には、この小丘周りは車を置かせていただけそうなところがいっぱいある。 適当な場所に置いて、早速調査開始だ。 _________________________________________________________ 山のとっかかりは、左写真の川治温泉神社から。 ここから浅間山山頂に向け、遊歩道が設置されいる。 綺麗に整備された遊歩道で、普段のような藪コキはいらない。 極めて楽ちんである! 10分ほど登ったろうか、早速目の前に・・・・・・・ 見た瞬間、「間違いない・・・・・・」 ◆現地縄張り図 |
【解説】 ◆縄張り彩色図 写真は堀切①を西から望んだところ。 しっかりした堀切で、当地を城と判断するには容易い。 両側は縦堀になっており、特に北側は長い。 左写真は北側の縦堀に変化したところ。 写真は堀切①の南側。 こちらは、短い。 __________________________________________________ ①の堀切を超えると、細い峰がつづく。 曲輪としての加工はほとんどしていない。 この山は非常に岩が多い。 山上には、あちこちに露出する。 曲輪加工するにも、この岩がたいそう邪魔なような気もする。 次に見えてきたのが堀切②である。 写真は、東側から望んだところ。 かなり埋まったり、崩れたりしているが、 間違いなく堀切跡である。 ここも北側が縦堀状になっているのが分かる(下写真) __________________________________________________ さらに、そこから西に向かうと堀切③がある。 写真は東側から望んだもの。 ①の堀切より小規模であるが、③は高低差のしっかりした堀切だ。 左写真は、壁の高い西側から堀を望んだところ。 ここの堀切も北側のみ縦堀になっている。(下写真) ①~③ともに、北側のみ縦堀になっているのは、 北側の方が若干傾斜が緩いからであろう。 __________________________________________________ 堀切を西に向かうと富士浅間神社がある。 この峰の最高峰である。 堀切の高低差からも、当地が所謂 ”主郭” と考えられる。 しかし・・・・・・・・・ 写真は、主郭西の峰から、主郭方向を望んだもの。 主郭含め、やはり自然地形と言って良い。 ただ、もっとも平坦な場所が多い。 このことからも、この西峰全体が主郭と言って良いと思う。 ここからは川治温泉を通し、鬼怒川方面に向かう谷あいが全貌できる。 北側は山に阻まれるため、視界が効かない。 管理人は、この視界が、城の築城目的に繋がると思っている。 ◆電子国土より さて、浅間山のこれらの堀切を①~③と名称してきたが、 そもそも堀なのか?という疑問もあろう。 確かに、神社(といっても、ここは小さな祠のみ)には、結界として堀をつくる場合がある。 しかし、平地にある神社のみで、山にある神社の結界の堀というのは、あまり聞いたことがない。 よって、管理人は、当地が中世城郭であると判断した。 無論、この城の城主はわからない。 解説してきたように、堀切以外は、ほぼ自然地形のままである。 この城は永住を求めたのではなく、”緊迫事態に備え、急ごしらえで作られた城”と思われる。 このあたりの緊迫した戦闘を考えると、すぐに思い浮かぶのは、”北の関ヶ原(※1)”と”戊辰戦争”である。 しかし、当地の堀切は戊辰戦争時の戦闘施設 「塹壕」 とは明らかに異なるもので、中世城郭色が濃い。 かと言って、「北の関ヶ原時の城か?」というと、監視方向が鬼怒川方面メインなのが引っかかる。 監視の方向からすると、徳川軍を待ち構える ”上杉の城” になってしまうのだ。 しかし、ここまで上杉軍が進出しているとは考えにくいのである。 謎である・・・・・・ もうひとつの謎は、ここまで綺麗に整備されておきながら、”この地が城と認知されていない”ことである。 今回、現地の方とお話することはできなかったが、機会を見て地誌などをあたってみたいと思う。 (※1)直江状による上杉と徳川の緊迫状態。関ヶ原の合戦直前、徳川軍は上杉景勝の領地に攻め込んでいる。 (浅間山城 コンプリート) |
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※追記 2023/10/05
栃木県のCS立体図が公開されたが、これを見ると曲輪の輪郭がくっきり。
地表面調査では分からなかったが、このように人工的に加工されたのは間違いない。
確かに城跡っぽい。
ただし、遺構からすると城なのか?というと、断言できないというのは変わらない。
これ、私は城と断言できません・・・ 2016/6/11 公開 |
バイブル・日本城郭大系の栃木県編末に、 「和泉城」はしっかり掲載されているが、場所も含め、その詳細が不明であった。 今回、本ページのお客様のサイトに、この城が紹介されていたので、行ってみることに。。。。 地元では「ジョウヤマ」と呼ばれるという場所は、 日光有料道路 今市インターのすぐそばだ。 高速を渡る橋から、ジョウヤマを望む。 この歩道橋からは、高速に沿ってジョウヤマにアプローチとなった。 高速沿いの道を進む。 ジョウヤマの西麓に着いた。 ここからは堀切り道が続く。 でも、これはどう見ても後世のものだ。 さて、そこからジョウヤマの頂点に向かうのだが、 ” あれ? ” 何も気づかずに頂上に着いてしまった。 「え!?城ってどこ?」 もう一度折り返してみると、 なんとなく切岸っぽい段差があるにはある。 北斜面にまわると、そこは崩落していて工事中だった ”えー、こんだけぇ??” と思いながら、ぐるりと一周。 ほんとこの程度の切岸?・・というより緩い段差しかない。 主郭?になるのだろうか、 頂部の入り口の切岸。 ここが城と決定づけられない一番ダメなところは、 尾根続きに切岸がないところだ。 堀切も全く無い。 要するに、 守る/攻めるの気持ちが伝わってこない。 城と言うには何ともパンチが無さ過ぎる。 伝承は確かにあるのかもしれないが、本ホームページの”開設にあたり”の定義によれば 管理人は、ここを”城”と断定できない。 百歩譲って、無理くり図面にするとこんな感じ。 遠く和泉城???を望む 城のバイブル城郭大系には ”土塁が残る” とあるが、ここには土塁と呼べるものは無い。 素朴な疑問が浮かび上がる・・・・・ 場所、間違ってね? 本来であれば、「情報調査」のコラムに載せるべきかも知れない。 近隣ののどかな風景。 東武日光線が通る。 (とりあえずおしまい!) |